上越といえば真っ先に浮かぶのは、
やはり上杉謙信の春日山城。
実は20年以上も前に、
一度上越市に来た事があるのですが、
上越市に高田城という城があった事を、
全く知りませんでした。
※当時はそれほど歴史に興味が無かった為。
上杉謙信については子供の頃から好きな武将で、
謙信のお膝元に来たと喜んだ記憶がありますが、
もちろんその当時は仕事で来たので、
何処にも観光していませんし、
春日山城跡にも行っていません。
そんな薄い思い出の上越市ですが、
今回は高田城跡を目当てにやってきました。
「高田城地図」。
松平忠輝の75万石の居城として築城され、
天下普請によって13の大名がこれを築き、
僅か7ヶ月で完成させたのが高田城。
三ノ丸広場の駐車場に車を停めて散策開始。
三ノ丸跡には陸上競技場、テニス場等の他、
多くの桜が植えられて公園化しており、
その本数は全体で4000本という。
高田城址公園は日本三大夜桜のひとつとされ、
季節には素晴らしい景観が楽しめるようですが、
今年はコロナの影響で、
寂しい季節を迎えたことでしょう。
「三重櫓」。
三重櫓は明治3年に本丸御殿と共に火災で焼失。
平成5年に7億5000万円で復興した三重櫓で、
高田城のシンボルとなっています。
「極楽橋」。
築城時より存在していた極楽橋は、
廃藩後に陸軍によって撤去され、
土塁で堀を埋められていましたが、
平成14年に堀と共に復元されました。
「本丸跡」。
本丸跡の北側半分は、
上越教育大学附属中学校の敷地。
一般人は三重櫓のある南側のみ入れます。
「史跡 本丸跡」碑。
本丸には本丸御殿が置かれ、
藩政中枢を担っていました。
平城は本丸でも不便ではないので、
藩主御殿が本丸に置けるから便利ですね。
廃城後は陸軍第13師団駐屯地司令部が置かれ、
枡形などの土塁は撤去されたようです。
本丸内からの三重櫓。
高田城には天守が無かったようで、
この三重櫓が天守の代わりであったとされます。
また高田城は75万石の居城ですが、
石垣が用いられておらず土塁の城でした。
この理由には諸説があり、
近郊に雪国に耐える石材無かったとか、
突貫工事の為に石垣を省略した等あります。
「外堀」。
外堀には蓮が植えられており、
その規模は東洋一という。
悪化した財政再建や士族授産の為に、
大地主保阪貞吉が私財を投じて植えさせたもの。
季節には一面に見事な花を咲かせるようです。
「瓢箪曲輪跡(上越市高田城址公園野球場)」。
高田城の特徴的な曲輪である瓢箪曲輪跡は、
その形状を利用して野球場が建てられています。
築城主の松平忠輝は徳川家康の六男でしたが、
結城秀康と同様に家康から嫌われていたという。
双方庶子であったからだとされますが、
特に忠輝は容姿が醜かったからという。
また家康自の嫡男信康に似ていたと云われ、
信康の面影を見るのを嫌ったともされます。
家康の死後、忠輝は兄徳川秀忠により改易され、
伊勢朝熊、飛騨高山、諏訪に流されました。
忠輝は粗暴な一面があったとされる他、
大坂の陣前後の失態を咎められたからという。
後に高田藩には酒井家次が10万石が入り、
次代の酒井忠勝が松代藩に転封。
代わって結城秀康の次男松平忠昌が、
26万石で入っていますが、
福井藩を継いだ兄の松平忠直が、
不行跡を理由に改易され、
忠昌は福井藩越前松平宗家を継ぎ、
高田藩には忠直の嫡男松平光長が入り、
叔父と甥が入れ替わるというカタチとなります。
その後、光長の継嗣をめぐってお家騒動が勃発。
一族重臣が争って家中は混乱し、
幕府の裁定で松平綱国が世継と決定しました。
しかし後に徳川綱吉が5代将軍に就任すると、
この裁定に不満を持っていた綱吉は、
裁定を再審する事とし自らが親裁を下します。
これにより高田藩は改易。光長、綱国は配流。
重臣らの多くが処分されました。
その後、高田は幕府直轄地を経て、
稲葉正住、戸田忠真、そして松平定重が入封。
いずれも懲罰的な転封でしたが、
定重の久松松平家は5代続き、
久松松平家が白河藩に移封されると、
代わって榊原政純が15万石で入って、
以降は藩主家は安定。
6代続いて明治維新を迎えます。
この榊原家の入封も懲罰的なもので、
政純の先代姫路藩主榊原政岑が吉原で遊興し、
その咎で政岑の隠居と転封が命じられました。
隠居後の政岑は改心したようで、
政純の後見人として藩政の再建に努め、
新田開墾、灌漑工事、副業奨励等を行います。
しかし政岑は転封から2年後に病死。
次いで榊原政純も数え10歳で病死してしまい、
無嫡断絶の危機に陥りました。
そこで政岑の次男富次郎を身代りとし、
富次郎を政純として藩主に据えています。
その後の榊原家高田藩は、
2代榊原政敦が奥州飛地5万石余を、
高田の隣接地に交替させる事に成功。
3代榊原政令は名君として藩政改革に尽くし、
陸奥飛地5万石余も隣接地に交換させています。
5代榊原政愛の時代に幕末を迎えますが、
政愛は動乱の文久元年に死去。
6代榊原政敬の頃に明治維新を迎えました。
慶応2年の第二次長州征伐では、
彦根藩と共に芸州口先鋒を命じられ、
広島藩領から岩国領へと侵攻しますが、
長州藩の散兵戦術に敗れて面目を失っています。
その後の戊辰戦争では新政府軍に恭順。
領内にいた旧幕府歩兵隊を追放し、
藩兵1000余名を長岡や会津に派遣しました。
会津戦争終結後は降伏した会津藩士を預り、
藩費によって手厚く待遇。
また佐幕寄りの江戸詰藩士らは神木隊を結成し、
彰義隊に合流し上野戦争を戦い、
後に榎本艦隊に合流して、
箱館戦争にも参加しています。
大手橋を渡って城外へ。
藩主家の榊原家を祀る神社があります。
「榊神社」。
明治4年の廃藩後、
旧藩士達が藩祖榊原康政を祀る為、
領内から広く寄付を募り、
明治9年に建立された神社。
後に3代当主榊原忠次、11代当主榊原政令、
14代当主榊原政敬を合祀しています。
藩祖康政は徳川家康より
「徳川家、榊原家があらん限り、
反逆以外の不調法で見捨てはしない」
という神誓証文を得ていました。
これが後世で榊原家を救い、
数度の改易危機を救いました。
※2代榊原康勝の無嫡や、
前記した榊原政岑の遊興など。
「琴臺東條先生之碑」。
儒学者東条琴台の顕彰碑。
琴台は江戸の医家に生まれで、
儒学者の大田錦城や亀田鵬斎等に学び、
3代藩主榊原政令の目に留まり高田藩に仕え、
海防論を説いて[伊豆七島図考]を発表。
これを幕府に咎められ、
江戸藩邸に幽閉されています。
その後、藩校修道館の教官筆頭に就任。
維新後は鎮将府、神祇省、教部省に出仕し、
眼病を患って辞職した後に失明しており、
明治11年に死去しました。
藩祖榊原康政は家康覇業の功臣。
徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に列し、
隊旗には[無]の一字を配し、
指揮官の能力は井伊直政に匹敵したという。
芸州戦争ではその武功の面目を失っていますが、
戊辰戦争では85名戦死者を出す勇猛さを魅せ、
また旧幕府側で戦った神木隊も、
箱館戦争まで戦い貫きました。
北陸道先鋒総督の参謀であった山縣有朋は、
広沢真臣宛ての書簡で加賀藩兵の臆病さを罵り、
高田藩兵の勇猛さを褒めています。
最後に藩祖の面目躍如といったところでしょう。
【高田藩】
藩庁:高田城
藩主家:榊原家
分類:15万石、譜代大名
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