兵庫県明石市 明石城跡②

つづぎ。
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東側の登城口から本丸跡へ。

辰巳櫓」。
現存する三重櫓
明石城の本丸には、四隅に三重櫓が建てられており、
その2つが現存しています。


本丸跡」。
築城当時には藩主の住居である本丸御殿が建てられ、
藩政の中心でしたが、火災で焼失した後は、
再建されることはありませんでした。


人丸塚」。
明石城が築城された人丸山には、
かつて弘法大師空海が創建したという楊柳寺がありました。
平安時代の楊柳寺住職覚証は、
柿本人麻呂の夢を見た為、塚を造ってこれを祀り、
境内に柿本神社を設置して、寺名も月照寺と改めています。
明石城の築城の際に、これら寺社は移転しましたが、
人丸塚は城の鎮守として残されました。


坤櫓」。
現存するもうひとつの三重櫓。
実は現存する三重櫓は全国に12棟しかなく、
その数は現存天守と同じですが、
現存天守が12城12棟の城に及ぶのに対して、
現存三重櫓は8城12棟と偏っています。


天守台跡」。
明石城には天守はありませんでしたが、
元々は建てられる予定だったようで、
天守台のみ設置されています。
結構な大きさの天守台ですので、
建てられたとすれば、5階規模の天守だった事でしょう。

本丸跡を出て、来た方へ戻り二ノ丸跡へ。

二ノ丸跡」。
現在は遊歩道のようになっています。
虎口によって半分に分けられており、
二ノ丸跡のさらに先が東ノ丸跡
古図の中には二ノ丸、三ノ丸と記載されているものもあり、
だったら大手門より入った広いスペースは、
何と呼ばれていたのか??
実際の三ノ丸はどちらなのでしょうか?


桜堀」。
本丸裏手にある堀で、
名称からすると周辺に桜が植えられていたのでしょう。
現在も桜はあるようですが、江戸期のものか、
後に植えられたものかはわかりません。


桜堀からの本丸石垣。
やはり明石城の見どころは石垣ですね。


剛の池」。
ボートが浮かび、水鳥が休む憩いの池。
現在は桜堀よりも桜の名所となっているようです。
かつては天然の外堀の役目を果たしていたようで、
当時はもっと大きい池だったという。

剛の池を見た後、稲荷曲輪へ。

稲荷曲輪」。
本丸跡側面の稲荷曲輪。
名称どおり稲荷社があったのか?
調べてもわかりませんでした。

明石藩8代藩主松平斉宣は 、
12代将軍徳川家斉の二十六男。
7代藩主松平斉韶には男子がいましたが、
幕府より斉宣を養嫡子とする事を強要され、
斉韶は仕方なく斉宣を養嫡子として家督を継がせますが、
将軍の子が藩主となったことにより、
2万石を加増されて明石藩は8万石となっています。

斉宣は格式にこだわる人物だったようで、
明石藩を10万石にする為に幕閣に掛け合い、
石高は変わらず明石藩の「10万石格」を認めさせました。
これによる格式維持の経費は財政を悪化させ、
後まで明石藩を苦しめています。
斉宣は暴君であったとも伝わっており、
 尾張藩領内で領民を無礼討ちし、
 領内の通行を制限されたとか、
 無礼討ちにした者の親から狙撃されて死亡したなど、
 複数の伝承がのこっています。
 実際に斉宣は藩主就任後、僅か4年で病死していますが、
 幕閣に加増を求めるには、ある程度のバイタリティも必要で、
 病弱であったとは考えられませんね。


斉宣の急死により9代藩主となった松平慶憲は、
7代藩主斉韶の長男で、本来ならば継嗣となる筈でした。
慶憲は御一門として佐幕派に属していますが、
親藩大名の為に幕政には関与していません。
湾岸警備京都警備に藩兵を派遣し、長州征伐にも出兵。
鳥羽伏見の戦いにも旧幕軍として出兵しますが、
遅参して既に勝敗は決しており、藩兵は明石に戻っています。

その後、山陽道南海道鎮撫総督に恭順の意を示し、
宗家の松平春嶽の取り成しで許されました。
以後は新政府軍に組み込まれ、
北越戦争に79名の藩兵を送った他、
3万両の献金を課せられています。

【明石藩】
藩庁:明石城
藩主家:越前松平家
分類:8万石(10万石格)、親藩大名

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