高杉晋作の主治医石田静逸

慶応3年4月14日。
高杉晋作は療養空しく短い生涯を閉じました。
長州藩はこの若き英雄をなんとか治そうと、
名医で聞こえた李家文厚竹田祐伯を送り、
寄組国司家も抱医の熊野祥甫を派遣。
特に竹田祐伯は三条実美附の医師でしたが、
木戸準一郎(孝允)がわざわざ大宰府から、
晋作の為に連れ帰っています。

この3名は長州藩が誇る蘭医で、
万全の体制で晋作の治療に尽くすのですが、
もう一人の医者が晋作に着いていました。
それが石田静逸(精一)という地下医です。

漢方医なのか蘭医なのかも不明。
どういう経歴なのかも不明。
しかしながら晋作が血痰を吐いて以来、
臨終まで晋作の治療を行い、
他3名と同等の薬礼を贈られています。

静逸は埴生浦(商家22軒)の村医者で、
詩画を好み周辺で詩家として知られた人物。
嘉永末から安政初め頃に王司に移住し、
後に小門(小瀬戸)に移りました。

医師よりも優れた詩家として聞こえ、
文久期には下関文人界の一翼を担うほど、
その名声は聞こえていたという。
勿論医業を疎かにしていたわけではなく、
白石正一郎の主治医でもあったらしい。

幕長戦争の最中に晋作が体調を崩し、
9月初めに血痰を吐いた際、
白石の紹介で晋作を往診したのか静逸で、
詩人的性質を持った晋作と静逸が、
共通点である詩文を通じて親交を深め、
親しく接するようになったようです。

藩から名医が派遣されてもその交友は続き、
晋作は弱った体で小門の静逸宅を訪問。
小門の景観を吟じながら話をしたという。

晋作は静逸の子息の修学斡旋を、
木戸や坂上忠助に依頼しており、
その親密さが窺え知れます。
※息子の石田鉄平奇兵隊に入隊し、
 後に桐原仁平を名乗っており、

 山口明倫館三田尻海軍学校に学び、
 明治維新後に上京しています。
 開拓使仮学校で励み官費遣露留学生選出。
 しかし半年後に健康を害して帰国し、
 明治6年に神戸病院で病没しました。
 桜山招魂場の最後列に墓碑があります。


また野村望東尼の救出にも関わっており、
藤四郎より静逸に望東尼の現状が伝えられ、
静逸が晋作に望東尼救出を進言したようで、
救出後は望東尼の治療も行いました。

当時不治の病であった労咳を患った晋作には、
一流の医者がその治療にあたりましたが、
静逸はホスピスの役割を担ったのでしょう。
革命に生きた天才の役割を終えた晋作は、
静逸や望東尼と好きな詩や歌で余生を過ごし、
了厳三谷国松うのらに囲まれ、
悔いなく逝ったのかもしれません。
※石田静逸のその後は記録に無いようで、
 その生没年も不明です。

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