中山家は羽林家の家格を持つ公卿家。
平安末期の内大臣中山忠親を祖とし、
晩年に忠親が洛東中山に居住した為、
中山家を称すようになったとされます。
初代こそ内大臣まで昇進していますが、
以後の子孫は権大納言止まりとなり、
家格としては羽林家に列しました。
13代中山孝親は正親町天皇の信任厚く、
織田信長と諸処の交渉にあたり、
この功積で従一位准大臣に昇進。
上記2人のみが大臣でしたが、
後に明治天皇の実母中山慶子の実家となり、
羽林家ながら侯爵家となっています。
「中山邸跡」。
中山家の邸宅跡は御所の北東側。
柵と門で侵入は出来ませんが、
これは明治天皇の生誕地だからでしょう。
24代中山忠能は攘夷派であり、
米国との通商条約に反対。
その後は公武合体を推進し、
和宮降嫁の御用掛を務めました。
八月十八日の政変後は長州藩を支持し、
京都での復権に尽力しましたが、
禁門の変で長州藩が敗北すると、
失脚して謹慎処分となっています。
次女の慶子は宮中に出仕し、
孝明天皇の御子を懐妊。
中山邸で皇子祐宮(明治天皇)を出産し、
祐宮は5歳まで中山邸で育てられました。
次男の正親町公董は三条実美と会見し、
これを咎めれて差控。
七男の中山忠光は天誅組の変を起こし、
これに敗れて長州へ逃亡。
長男の25代中山忠愛も長州寄りとして、
忠能と共に謹慎処分となっており、
中山家は非常に微妙な立場でしたが、
明治天皇践祚に伴い復権し、
忠愛は新政府の参与となっています。
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