井上馨 ~高杉晋作との関係

井上馨について・・・
井上馨(幕末時は志道聞多、井上聞多)は、
長州藩閥の重鎮にして汚職大魔王
汚職にまみれとはいえ財務の才能はピカ1で、
新政府のつたない財政を切り盛りし、
日本を西洋列強の一員にのし上げた功績は、
とても大きいでしょう。

この井上馨(以下聞多)と、
高杉晋作とはどんな関係だったのしょう?

井上は大組百石井上家の次男として生まれます。
晋作と同じ大組ですが知行は半分の百石で、
屋敷も萩城下ではなく湯田にありました。
高杉家より家格は下です。
※高杉家は200石。

次男なので志道家に養子に出されますが、
志道家は生家井上家より格上の寄組280石
長男はその生家を継ぎますが、
下の子は養子に行きさえすれば、
長男より出世する例ってよくあります。

明倫館で蘭学に興味を持ち、
江戸の蘭学者岩屋玄蔵や、
江川太郎左衛門にも学んでいます。
この辺が国粋主義の攘夷派と違うところで、
藩主に「なんでも聞いてくるから」と、
井上聞多の名前も拝領。
江戸で尊皇攘夷運動を展開しますが、
晋作との接点はこのあたりからですね。
長州人の議論好き」は有名ですが、
議論より行動派の二人は、
意外に気が合ったのかも知れません。

晋作は一足先に外国(上海)に行きますが、
聞多と伊藤俊輔長州ファイブとして英国へ。
この英国渡航で聞多は開国論に転じます。
上海から帰って攘夷に走った晋作とは真反対。


長州ファイブ

第一次長州征伐では武備恭順を主張。
講和を模索する俗論党に襲われ、
井上は瀕死の重傷を負いますが、
功山寺で挙兵した晋作に呼応します。

井上は第二次長州征伐に備えて、
薩長同盟の周旋や武器の手配に奔走し、
芸州口では諸隊を指揮して戦い、
休戦の際には幕府使者勝海舟と談判しました。

維新後は、造幣頭、大蔵大輔、外務卿、
農商務大臣、大蔵大臣などを歴任。
鹿鳴館に象徴される極端な欧化主義や、
三井の番頭」と西郷に非難されていますが、
財政通の元老として政府の重鎮となりました。

明治44年5月20日。
吉田での「高杉東行顕彰碑」の除幕式でのこと。
碑文は伊藤博文によるものですが、
伊藤は先年にハルピンで暗殺者の凶弾で死去。
菩提を弔っていた谷梅処も亡くなっています。
残された井上は往時を思い出し、
涙を流しながら友人代表として演説を行う。
その演説は延々2時間に及び、
参列者は次々と日射病で倒れたという。

井上馨の一番輝いていた時代は、
晋作と共に行動していた時代でしょう。
走り抜けた青春時代。
2時間にも及ぶ大演説は、
死線を共にした井上ならではのものでしょう。


高杉東行顕彰碑除幕式

晋作がうのに、
自分が死んだ後、お前は頭を剃ろして、
 墓守をしてくれ。

 さすれば、友達もお前を見捨てはすまい
という様な事を言っていたとか。
井上も東行庵になにかと支援していたようで、
梅処尼(おうの)が亡くなった後も、
2代目庵主谷梅仙の就任に関わっています。

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