「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し・・・」
有名な東行庵にある晋作の顕彰碑。
その建立の過程には色々なドラマがありました。
「贈正四位高杉君碑」。
冒頭の「動けば・・」は、
晋作の性格や生き様をよく表した名文ですが、
これを伊藤博文が書いた事もよく知られます。
碑文については晋作関連のサイトに掲載されていますので、
ここではあえて触れません。
晋作の顕彰碑は、明治40年頃から伊藤博文、山縣有朋、
井上馨、杉孫七郎らが発起人となって計画が進められました。
歴史を全く知らないインチキ知識人やブロガーが、
「長州閥が自ら正当性を宣伝するために顕彰事業を行った」
と言ってますが全くの間違いで、顕彰事業に全くの組織性は無く、
遺族らが慰霊の意味を込めて発起したものがほとんどです。
組織的であれば、久坂玄瑞の顕彰碑が存在するはずですよね。
晋作の顕彰碑も、発起人のひとりが「顕彰碑を建てよう」と言いだし、
皆が賛同したのでしょう。
さて、晋作の顕彰碑ですが、
墓所の隣に眠る福田侠平の顕彰碑も建てようという事になり、
同時に計画が進められ、福田の撰文は山縣が担当するのですが、
晋作の撰文については、伊藤が「俺が書く」と自ら申し出ました。
撰文は箔をつけるために位の高い人間の名を借りて、
実際にはゴーストライターが書く事が多いのですが、
やはり生死を共にした晋作の撰文は、自ら書きたかったのでしょう。
同時に進められた晋作と福田の顕彰事業ですが、
福田の顕彰碑の方がかなり早く出来上がります。
自ら名乗り出た伊藤は、なかなか撰文を仕上げられない。
福田の碑が除幕してもまだ出来上がらず、
結局撰文の完成に2年かかりました。
その甲斐あってか「動如雷電 発如風雨・・」の名文が完成。
晋作の生涯と功業が、簡潔かつ適切に表現されました。
しかしながら、この撰文が遅れた事により、二つの悲劇がおこるのです。
■関連記事■
・伊藤博文 ~高杉晋作との関係
晋作の弟分のような存在であった初代内閣総理大臣、
・山口市 福田侠平遺髪墓
山口市に福田の遺髪墓があります。
・高杉晋作の葬儀
晋作の葬儀は白石正一郎が取り仕切りました。