高杉晋作顕彰碑物語⑦(井上馨の演説4)

まだまだまだ井上の演説は続きます。
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かように下関は遂に開戦となったものであるから、前田も帰り、私もその跡を追うて山口へ帰りまして、両君公に拝謁して、馬関は必ず敗れます、馬関が敗れたならば、外国艦隊は小郡に来て、陸戦隊を上陸せしめ、そうして山口に侵入するに違いない。ついては私に一大隊の兵を貸して下さい。そうすれば小郡を死所と定めて、二日間は必ず止めますから、その間にお覚悟なさるようにと言うたので、遂に私に第四大隊を管轄するようにという命令が下った。その時、高杉君も罪を許されて山口に出て、軍務掛とかいうことを命ぜられておったのである。そうして伊藤も山口におったので、三人が小郡を死所と定めて、斃れてやむという精神で外兵を喰い止めようということを誓い、共に小郡に出張することとなった。

私が小郡に出張する時に、小郡代官という事を命ぜられましたけれども、死ぬる場合に代官も何も要るものではないといって、断ろうとしたところが、高杉君が、イヤ断わらぬがよい、君が代官となっておれば、戦をするのに兵隊を繰出したり何かするのに極めて都合がよいからと言うものですから、私も代官の命を受けて小郡に出張致しました。

私が小郡に出張すると、続いて世子公も馬関の軍勢を自ら指揮なさるということで、政務員等を従えて御出張になった。その時私どもは勘場即ち小郡の代官所におって、防戦の部署を定めておりましたところが、その翌朝政務員が代官所へ会合して、しきりに和議の説を仄めかす者があったから、私は大いに憤慨して、未だ戦わざる前には戦論を主張し、戦が始まるとまた和議論を主張するというような無節操な事では、国家が維持されるものではない。諸君はたとえ防長二州は焦土となるとも、どこまでも攘夷を遂行するという明言したではないか、その決心ならば、どこまでも奮戦して斃れて後やむがよい、そうしたならばたとい国が滅びても、後世に至って、長州は頑固ながらもよくその初心を貫いたといって、わずかに面目を保つことが出来ようが、朝には戦論を主張し、夕には和議論を主張するような飄然たる国是では、一国を維持することの出来るものではないという主張で激論に及んだ。

しかるところ御使が来て世子公のお召というから、高杉君に導かれて出てみますると、世子公が権道を以て和を議すと書いて示された。私は理論に拠ってその不可なるゆえんを極諫致したところが、世子公がまた信義を以て和を議すと書いて示されたので、私はまたかように御心が変ずるようでは、和議の命は受ける事は出来ませぬと言って、ひどく世子公にむかって論じたところが、高杉君が、君のように激論ばかりしては、今日危急の場合何の益もないのみならず、却て害を招くようなものであるからといって、私を説論したこともある。

これらの事を詳しく話すと、なかなか長くなるから、その大略に止めて置きまするが、つまり和議をした以上は、幕軍に向かってどこまでも抗戦し、幸に勝利を得たならば、日本の政権を朝廷に復帰するという御決心を示されたので、終に私どもが和議の命を請けることとなったのであります。

しかし和議の使節というと、私如き一介の書生ではいけない、一番家老を用いなくてはならぬ。けれども家老の中でその任に堪える人がないから、どうか高杉君を家老として、和議の使節にお命じになったらよかろうと建議に及んだ。そこで高杉君が宍戸備前の養子ということになって、宍戸刑馬と改名して馬関に出張することとなりました。

我々が高杉君に随行して馬関に出張したのは八月八日であって、漸く和議の談判を開くことが出来ましたが、和議に関する忠正公の御書面の不備の点もあり、旁々でどうしても船木まで帰って談判の模様も復命し、かつ君公の御書面も書換えなければならぬので、高杉君と伊藤は船木へ帰りましたが、私は一人馬関に残って、外国人が交渉して来る事務を処理し、また台場の大砲を軍艦に運ぶことの談判などをしておったところが、高杉君と伊藤の両人から飛脚を以て手紙を寄越した。

その手紙を見ると、船木では君側を初めその他の人々が非常に憤慨して、このたび和議を結ぶこととなったのは、高杉、伊藤、井上の三人が世子公に勧めて、君命を矯めてやったことであるから、彼らを斬り殺すという激論が起こったので、我々二人は大いに憤慨し、直に船木の有帆村という処の民家に潜伏したから、君も早く来いという事であった。

けれども私は今申す如く、馬関砲台の大砲を外国人が軍艦に運ぶことの処理をしておる最中であるから、直ぐには往くことが出来ぬ、そのうち船木よりまた八月の談判に約束した通り、十日の正午から再び談判を開くため、講和使節が出張するから、その通辧をせよという命令を伝えて来た。これも打捨て置かれぬので、十日の談判に参列して、通訳の労をとったのである。この時は高杉君が潜伏しているので、毛利登人が毛利出雲と変称して、正使となって来たのである。

それでその日の談判をすまして、すぐに船木に帰り、直ちに世子公に拝謁して、高杉、伊藤の二人は攘夷論者が斬殺すというので、潜伏しているそうでありますが、私どもは決して自ら好んで和議の任に当たったのではない。むしろいったん戦を始めたならば、斃れるまで戦うがよいと主張したのであるが、御前を始め政府諸員は是非和議をする、和議をした以上はまた攘夷論に変ずるようなことはない。そうして幕軍と抗戦するの決心は確乎として動かぬという御決心でありましたので、止むを得ず泰命したのであるということを申し上げ、それから君側を初め政府の諸員を世子公の前に召集して、その趣旨を陳弁したところが、政府員等は一言も異議を唱えることが出来なかったのみならず、前決議は決して動かさぬと誓言した。

しからば高杉と伊藤をお呼出しになって、再び和議の使節をお命じになるようにと申上げたので、世子公より使者を以て二人を召還されることとなった。それで十四日の談判には高杉君が正使となって、我々が通訳の労をとったのである。そうして遂に止戦條約を結ぶことが出来ました」。

話が暴走していても「高杉君」と呼んでいるのは、
晋作の式典だからというだけとは思えません。
井上は当時、晋作の事を「高杉君」と呼び、
伊藤の事を「伊藤」と呼び捨てにしたのが推測できます。
四国連合艦隊との講和の談判に至るまでの段階で、
晋作のお株を奪うような暴れっぷりを示す井上ですが、
晋作は冷静に井上を制していたようですね。
兵が扱えるから小郡代官を受けるべき」と忠告し、
激論ばかりでは益なく害を招く」と諭じています。

井上の演説は、もうちょっと続きます。
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