高杉晋作顕彰碑物語③(碑の概要)

つづき。
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伊藤博文による碑文が完成したわけですが、
それだけでは顕彰碑ではありません。
碑石仙台産出の紫金石が使われますが、
現在は産出されない貴重な石です。
蒙額は毛利宗家当主毛利元昭
彼は書が得意で数々の碑に書を書いており、
毛利宗家の当主で公爵という地位も、
蒙額を担当するに申し分ない人物。


毛利元昭

揮毫(碑文の書)は杉聴雨(杉孫七郎)。
吉田松陰の門下で藩主の小姓を務め、
幕府の文久遣欧使節にも参加。
下関戦争の講和の際には晋作の補佐として、
渡辺内蔵太と共に副使として交渉し、
維新後は山口藩権大参事を経て、
宮内庁で活躍しました。
※杉は長州三筆の一人で、
 他の二人は野村素軒長三洲
内訌戦では最後まで反対しましたが、
晋作を英雄とみなしていたようです。


杉聴雨(杉孫七郎)

撰文は先に書いたように伊藤博文。
彼の撰文が遅れた為、
晋作の顕彰碑建立が遅れたわけですが、
その彼も既にこの世にはいません。

顕彰碑は産地の仙台において制作。
船で輸送されて木屋川を遡って荷揚げされ、
そこからはコロを使用して、
地元青年団が紅白の引き綱を引き、
東行庵まで運びました。

伊藤の撰文が完成してから2年後
晋作死去45年後の明治44年5月20日。
高杉晋作顕彰碑の除幕式が開かれます。
先に完成された福田侠平の顕彰碑の隣に、
ひとまわり大きな石碑が堂々と建立。
御楯隊士だった寺内正毅が、
伊藤の暗殺後に初代朝鮮総督になっており、
その彼の手配で払い下げされた銃身が、
碑を囲う鉄柵に使用されました。
奇兵隊が使用した歩兵銃だったという。
晋作の顕彰碑の鉄柵に相応しいものですが、
後年の大戦で供出されてしまいました。

↓こんなのが鉄柵になったようですが、
どんな感じだったのでしょうね。

既に谷梅処、伊藤博文は亡くなっており、
除幕式は井上馨侯爵によって行われます。
東行庵の庵主は谷梅仙が継いでいました。

政界からの来賓をはじめ、
全国から数千人の参列者が集まり、
小月駅から東行庵まで、
人力車が絶え間なく連なったされます。
そしてこの高杉晋作顕彰碑除幕式において、
2時間に及ぶ大演説が始まるのでした。

つづき。
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