伊藤博文の「動けば・・」の原文や訳は、
沢山のHPやブログに掲載されていますが、
井上馨の演説の内容は知られていません。
大変ですが全文掲載してみようと思います。
45年前に死んだ晋作の顕彰碑除幕式で、
死生を共にした友を思い出したのか、
井上は2時間にも及ぶ演説を響かせました。
共に晋作を偲ぶ筈だった戦友伊藤博文も、
今は帰らぬ人となっており、
一人残された井上は何を思ったのでしょう。
式典に参加した人々は演説に感激しますが、
熱が入りすぎて長々と続けた為に、
聴衆に卒倒者が続出。
式典のために用意されていた救護班が、
卒倒者介護に大忙しだったと伝えられます。
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贈正四位高杉晋作先生の建碑除幕式式場に於いて
(明治四十四年五月二十日 山口県厚狭郡吉田村)
井上侯爵演説
「高杉君のために碑を建てるということは、
故伊藤公、今の山縣公、杉子と私どもが発起
人でありますが、毛利公はじめ多数賛成者の
熱誠なる援助を得て、ここに崇碑の建設を見
るに至ったのは、誠に歓喜に堪えぬ次第であ
ります。
なお、また今日かくの如き盛大なる除幕式を
挙げらるるについては、渡辺知事、槙郡長そ
の他当事者諸君の御骨折は、実に容易ならぬ
ことと存じます。此の段は私が深く感謝する
ところでありまする。私もこの盛典に参列し
て、自ら除幕の紐を取る光栄を担ったのは、
誠に満足の至りでありまするが、これと同時
にまた無量の感慨をも惹きおこしました。
今日より往時を回顧するに、高杉君の卒去よ
りもはや四十五年の星霜を経ちましたが、私
も不肖ながら同君と生死を共にして、国事に
奔走した一人であって、その当時を回想する
と殆ど夢の如しで、自然と無量の感慨に打た
れるのであります。
高杉君の功績はこの碑文書かれたる如く、赫
赫として千載不朽でありますが、君がかかる
功績を成し遂げたる根源はいずれにあるかと
いうに、決して一身のためでもない、また一
家のためでもない、全く国のため君のため一
身一家をなげうって尽くさなければならぬと
いう誠忠無二の精神がその根源となっている
のであります。
我が国では忠孝二途無しで、忠義を尽くせば
孝道もしたがって相立つわけで、忠臣はすな
わち孝子である。それで高杉君は忠孝の人で
あるが、君がいかに駿傑であっても、一人で
かかる功業の出来るものではない。必ず同志
の賛同を得なければならぬが、その同志と交
わるには信義を重んずるという誠意がなくて
は、人が信頼して死力を出すものではない。
高杉君はその忠孝信の三道を踏んで世に立っ
て、かかる大業を成し遂げられたのである。
この式場の参列しておらるる方々は、高杉君
の盛名を欽慕しておらるるであろうが、徒に
その名を欽慕するばかりでなく、その実を欽
慕して、今申した三道、即ち君に忠、親に
孝、人と交わる信という事を常に心がけて貰
いたいのである。
殊に学校の教員諸君学生諸子に向かっては、
極力これを切言致します。なぜならば今頃の
若い人々は、忠孝信の信念がよほど薄らいで
きたように考えられるからである。先ずかよ
うに高杉君の精神のありしところをのべてお
いて、これから私が君との関係の大略をお話
いたします。
私が高杉君と国事に奔走したのは、文久二年
が初めであります。この年の八月の当時の世
子公即ち忠愛公が勅命を奉じて江戸に下ら
れ、次いで十月になると三条実美、姉小路公
知の二卿が正副勅使として、攘夷の勅旨を将
軍に伝えるために江戸に下られた。それで忠
愛公もこの二卿を補佐して勅旨貫徹に勤めら
れたのである。けれども将軍が病気だという
ので勅使の入城も大いに延引して容易に勅命
をお請けする様子が見えぬ。その以前高杉君
は忠愛公の御小姓を勤めておられたが、時事
に感ずるところがあって、藩邸を亡命して
浪々の身となられた。
私も同じく御小姓であったが、英学修業を命
じられたので、現勤を除かれて外泊しており
ました。それで高杉君と共に尊攘の事に奔走
しておりましたが、この時吾々は藩の政府が
因循であるから幕府の決断が出来ないと考え
ていたので、高杉君等の同志と共に、外国公
使を斬殺して事端を啓き、そうして藩政府及
び幕府ぼ決断を促そうではないかという事を
企てた事がある。これが十一月十三日の事で
ありましたが、この企ては忠愛公の御説論で
中止することとなりました。
その後勅使も入城なさって、将軍も攘夷の勅
をお請けしたものであるから、勅使は江戸を
立って京都にお還りになり、又忠愛公も続い
て御出発になった。そのあとで、高杉君等と
共に御殿山の公使館を焼いたこともある。こ
れ等は今日から考えると、誠に暴挙ではある
が、その精神はかくしなければ、士気を作興
して尊攘の実を挙げることが出来ないという
考えから起こったのである。
私共はかような事からして幕府の注目すると
ころとなったので、この年の十二月の末に同
志の大和弥八郎、長峰内蔵太と共に京都に上
りまして、その他の同志も追々江戸を去るこ
ととなりましたが、高杉君は久しく江戸に滞
在して帰ってこない。そこで忠愛公がひどく
御気遣いになって、高杉を長く江戸に置く
と、如何なる禍に罹るかも知れぬから、是非
呼び返すがよいというので、私が忠愛公の御
親書を持って江戸に迎えに下り、忠愛公の思
召しを伝えて、遂に同伴して京都に帰りまし
たが、高杉君は政府の為すところに不満をい
だいておるものですから、役人になることを
厭うて、終に十年の暇を賜ることとなりまし
た。そこで高杉君は剃髪して僧形となり「西
へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知る
らむ」という歌を詠んで、その志のあるとこ
ろを示された。それから初めて東行と称した
のである。
かように遁世の姿とはなったものの、決して
君公父子を後に見る気は毫もない。外にあっ
て自分の意見通り両君公の為に尽くすという
決意であったので、他の有志者と共に暫く尊
攘の事に奔走しておりましたが、五月に至っ
て終に帰国することとなった。
私はこの月十一日に故伊藤公等と共に、君公
の密許を得て洋行することとなったので、留
守中における高杉君の行動はよく存じませ
ぬ。帰朝の後同君と面会して、初めてその大
要を聞いたのみである」
忠孝信の三つの道を踏むことにより、
晋作が大業を成しえたと説き、
国事奔走の始まりが語られます。
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