「私共一行は故伊藤公の他、野村弥吉、山尾
庸三、遠藤謹助の五人であって、非常な辛苦
をなめて、英国ロンドンに着し、同地に滞在
している中に、薩州は生麦事件よりして、英
国艦隊の襲来に会うて、鹿児島湾で戦をした
という報知が英国の新聞に見え、かつわが長
州においても、下関でみだりに外国船を砲撃
するという事も新聞に現れ、それからその砲
撃を受けたる各国は是非艦隊を派遣して、長
州の罪を問わなければならぬという論説もし
ばしば現れていた。
そこで伊藤と相談して、長州が各国艦隊を引
き受けた暁には、到底勝利を得ることは出来
ないのみならず、敗戦の結果莫大の償金を取
らるるか、或いは土地を割かるるか、この二
つの結果は免れることができない。実に我が
郷国の大事であるから、速やかに帰国して攘
夷の方針を転じさせて、開国尊皇の方針を取
らせようという志を決した。
そこで他の三人を残して、伊藤と二人で帰っ
てきて、先ず横浜で英国公使に面会して帰朝
の趣旨を説き、それから国公使の周旋で他の
三ヶ国公使の同意を得て、二隻の軍艦で姫島
へ送られたのであるが、姫島から富海へ渡っ
て、三田尻を経て山口へ帰着したのが、元治
元年の六月二十四日であった。
それから要路の人々に会って我々の意見を述
べかつ君公御父子のも拝謁して、西洋の事情
を具申に及んで、終に二十七日に御前会議を
開くこととなった。けれどもその節は攘夷論
の盛なる時期であって、我々の意見は到底行
われぬ。それで伊藤と私は政府の命を受け
て、姫島に行って外国人に返答に及んだので
あるが、その趣意は、攘夷をしたのは、長州
一己の意見ではない。朝廷幕府の命を受けて
やったのである。よって唯今、藩世子が朝旨
伺い定めのために京都に上りつつあるから、
どうか九月中の延期を願いたいということで
あった。けれどもかような曖昧な返答では、
外国人が承知する筈がない。それで外国人
も、しからば弾丸の間で御目にかかるほかは
ないというて、姫島を去ってしまった。
私は世子公ならびの三条公等五卿が京都に上
らるることも、甚だ不同意であったけれど
も、これも御採用がなくて、七月十三日に遂
に御出発となった。その時一藩人士は、我々
が帰って来てしきりに開国論を主張するとい
うことを聞いて、彼等は夷狄の廻し者である
とか、間諜であるとかいうて、国賊呼ばわり
をなし、甚だしきに至っては彼等を抹殺して
攘夷の血祭りにするがよいというような勢い
であった。
それでも私どもの命は実に風前の燈火の如き
感が起こったので、萩の小沢家に嫁している
一人の姉を訪ねて、今生の暇乞いをなし、か
つ高杉君にも会って自分の志を告げたいと思
って、山口を出発して萩に参りました、そう
して姉に会って久濶を叙し、かつ何時如何な
る禍に会うかも知れぬといって、暗に決別の
意を述べた。
その以前高杉君は、君命を以て来島又兵衛の
上京を制止するため、説論に参りましたが、
来島が言うところをきかぬものであるから、
奮然として自ら京都に上りましたので、世子
公は使者を以て之を召し還された。帰って来
ると、政府では脱走の罪を糺して野山獄に投
じましたが、この時は出獄を命ぜられて、親
の高杉小忠太の家に幽閉されておりました。
それで私は高杉家を訪ねて小忠太に会い、晋
作君に面会したき旨を申し通じたところが、
小忠太という人は誠に厳格の人であるから、
晋作事はお上から預かっている罪人で、今座
敷牢へ入れてあるのだから、みだりに他人に
面会を許すことは出来ぬと、堅く断りまし
た。けれども私の表情をよく察したるものと
見えて、事に託して外出致しました。
それで高杉の妻君に会うて、どうか一度面会
を得たいものだといって嘆願しましたところ
が、妻君が座敷牢の鍵を開けて、内々で私に
会わする事を取り計らってくれた。
そこで私は洋行以来の次第と、外国の形勢事
情などを談じ、また帰朝以来の意見も申し述
べると、高杉君も君等が不在中はかようの行
動をとったということを話し、また君の意見
は如何にも同論であるから、どうか国事の為
に死ぬるならば、君と死所を共にしようとい
うて、互いに誓いました」
語るうちに熱が入って昔を思い出したのか、
はじめ伊藤公と言ってたのに、
途中から伊藤と呼び捨てになっています。
高杉家を訪問した際の様子が語られ、
父小忠太が面会を断りながらあえて外出し、
面会を暗に許した様子が語られました。
井上の演説は、まだまだ続きます。
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