高杉晋作顕彰碑物語②/二つの悲劇

つつき。
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当時の東行庵で墓守をしていたのは谷梅処
晋作の愛人であったおうのです。

司馬遼太郎の心無い創作のせいで、
無理やり墓守をさせられたとなってますが、
そのような記録は全くありませんし、
状況から自らの意志で墓守をしたのは明白。
まず菩提を弔うべきは正室ですし、
たかが愛人がどう行動しようが、
世間体には全く問題はない。
おうのが晋作の遺言に従い、
東行庵で墓守をするようになったのは、
遺族の話し合いで決められた事でしょう。
以後の高杉家との関係でも明らかです。


東行墓と晩年の梅処尼。

顕彰碑建立の計画は梅処にも伝えられ、
梅処は顕彰碑の完成を心待ちにしました。
福田侠平の顕彰碑は計画通り進められ、
先に出来上がったと伝えられましたが、
晋作のは撰文さえも完成していません。

福田さんの次は旦那(晋作)のだ」と、
梅処は待っていましたが、
待てど暮らせど顕彰碑は来ない。
旦那のがまだ来ない」と、
梅処は独り言のように話していましたが、
突然脳溢血で倒れ、
明治42年8月7日に急逝。
誰よりも碑の到着を望んでいた梅処は、
その到着を待てずに死去してしまいました。
翌年に福田の碑の除幕式が行われますが、
晋作の碑の到着はその翌年後の事。

さて伊藤博文が撰文を完成させたのは、
梅処が亡くなった翌月だったようで、
碑文の最期は、
明治四二年九月 正二位大勲位侯爵
 伊藤博文 撰
となっています。

この1カ月後に悲劇が起こりました。
明治42年10月26日。
伊藤はハルビン駅で暗殺されます。
晋作の碑を誰よりも待っていた谷梅処と、
盟友だった伊藤が相次いで亡くなりました。

つづく。
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