高杉晋作顕彰碑物語⑨井上馨の演説6

井上の演説・・・ラスト。
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高杉君が馬関へ出た翌日に、諸隊の長官等
も意を決して長府を出立し、伊佐まで進ん
で、五卿方のうち二人を泰じて萩へ進むとい
う手筈であったが、萩政府がこれを拒んだの
で、二卿も最早毛利父子へ忠告するの道はこ
れで終局を告げたというので、長府に帰られ
た。そこで諸隊もいよいよ戦意を決したので
ある。

萩政府においては、諸隊がかように騒ぐもの
であるから、万一目下牢舎申付けている前政
府員等を奪われてはならぬと思って、前政府
員の前田孫右衛門等七人を惨殺してしまっ
た。この報知が馬関へ達したものですから、
高杉君は大いに怒って、これはもはや一日も
猶予は出来ぬというので、再び兵を進めて、
新地の会所を乗取ってしまった。これがちょ
うど慶応元年正月二日の事であります。

それから大田で諸隊が俗論党と戦いを始め、
高杉君も配下の兵を率いてこれに会しました
が、諸隊の方が連戦連勝であって、終に俗論
党を撃ちすくめまして、両君公は山口にお帰
りのこととなった。これから幕府が再び兵を
差向けて来ても、二州を賭して抗戦し、幸い
に勝利を得たならば、幕府を倒して王政復古
を図るという国是が定まったのである。

これからその方針で着々その歩を進めて、薩
長の聠合も成り、四境の戦争にも勝ち、慶応
三年の冬遂に薩長聠合の力で将軍慶喜公をし
て余儀なく政権を返上せしめて、王政復古の
大号令が発すると同時に、両君公の復位複官
の沙汰がありました。

それから徳川氏の処分問題よりして幕兵が大
挙北上することとなって、伏見鳥羽で戦端を
開きましたが、官軍の薩長兵が大勝利を得た
ので、王政復古の鴻業が成り立ったのであ
る。

かような結果となった原因はどこにあるかと
いうと、高杉君が義兵を挙げて、藩論を恢復
したのにある。それで高杉君の挙兵は王政復
古の基をなしているといわなければならぬ。

けれどもその目的を達するには、長州一藩で
は甚だむつかしい。幸に薩州の意向も王政復
古にあったので、薩藩と聠合することになっ
た。この薩長二藩の聠合は、幕府を討滅する
上においてきわめて有力なる手段であって、
鳥羽伏見の戦に勝ったのは、即ちその効果で
あるが、この二藩聠合についても、高杉君が
木戸と共に主として骨を折っておられる。そ
うしてみると、高杉君は王政復古の大業を翼
賛する基を作った人であると言わなければな
らぬ。

君がかように辛苦艱難を経て、大業の基を作
られたのは、前にも申した如く、決して自己
名聞の為でも何でもない。只国の為、一身一
家をなげうってどこまでも尽くさなければな
らぬという忠義の精神から起こったのである。

それで俗論党討滅の師を起こした時も、たと
え悪名を天下に蒙むるといえども、毛利氏の
隠忠臣とならんと欲すという事を書いておら
るるが、いかにもその通りで、君の心中でこ
の忠孝信の三道というものは、国家将来に於
いても決して欠くべからざる事で、これが即
ち日本魂の大本である。

今日この式場に参列して、この盛挙を諸君が
賛助なされたのは、高杉君の盛名を欽慕され
たのみでなく、その精神を欽慕されたのであ
ろうと私は信ずる。故に諸君がその精神なく
して高杉君の碑に対せらるるのは、誠に耻づ
べきの至であろうと思う。

ことに学校の教員諸君に向かって切言致しま
するが、この後、生徒を率いて修学旅行かた
わらこの碑石の前に立たれた時分には、高杉
君の精神たる忠孝信の三道を君誨して、生徒
をして感奮して国家に尽くすの精神を興起せ
しむように願いたいのである。しからざれば
この石碑も真の一片の石塊となって、世に益
するところは毫もなくなるので、私共も高杉
君の神霊に対して相済まぬ訳である。それで
最後に向かってくどくどしいけれどもが、こ
の事を繰返しておくのである。

今日は高杉君の建碑除幕の盛典に参列して、無量の感慨に打たれましたよりして、いささか自分の所感を述べて、そうして式辞に変えたつもりであります」。

やっと終わった・・・(笑)。
内訌戦序盤は井上は参加してないので、
後に聞いた話でしょう。
既に我に返ってますので、
あれだけ詳しく語っていたのに、
内訌戦~幕長戦については端折っています。
初めに触れた「忠孝信の三道」を、
最後にちゃんと回収。
この演説は名演説とは言い難いものですが、
熱き青春時代を語る熱のこもった演説で、
生死を共にしたからこその演説でした。

この式典の2年後に井上は脳溢血で倒れ、
外出は車椅子という状態となります。
その更に2年後の大正4年9月。
井上は79歳で死去しました。

顕彰碑に関わる一連の物語を書きましたが、
殆ど井上の演説になってしまいました。
この晋作の顕彰碑に限らず、
どの顕彰碑建立にも少なからず、
何らかのドラマがあることでしょう。
漢文はあまり読めませんが、
誰かの顕彰碑の前に立つときは、
精神を理解する事に努めようと思います。

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