高杉晋作顕彰碑物語⑧/井上馨の演説5

井上の演説はもう少し続きます。
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この和議の時、最も困難なる問題は償金一
件であったが、高杉君は、長州が攘夷をした
のは、決して一己の意見でしたことではな
い、朝廷幕府の命を遵泰した結果であるか
ら、償金を御要求になるならば、幕府に向か
って御要求になった方が至当であろうという
ことをしきりに主張したので、この償金一條
は止戦條約にもよほど曖昧に記してある。け
れども長州政府では、償金を要求されては到
底応ずることが出来ないというので、その
後、家老井原主計に杉と伊藤を副し、修交使
節として横浜に派遣して、四ヶ国公使の意向
を探ってみると、四ヶ国の公使は、その償金
の事はすでに幕府に要求して、幕府から支払
うこととなったからご安心なされと言うたの
で、井原等も大いに安心して帰りましたが、
これは偏に高杉君の功であろうと私は考え
る。

外国の方はかように始末がつきましたが、幕
府の征長軍に対する方針については、藩論が
二派に分かれた。その一派は、幕軍が押寄せ
たならば、防長二国が一致してこれと抗戦
し、不幸にして敗戦に終わったならば、君臣
共に城を枕にして討死する。また幸にして勝
利を得たならば、幕府を倒して尊王の大義を
天下に明らかにするという論である。

また他の一派は実際京都に於いて禁門に向か
って発砲したことであるから、その罪はどこ
までも謝罪しなければ条理が立たぬ、かつ防
長二ヶ国の労れた兵をもって天下の兵と交戦
したならば、決して勝算はない。故にどこま
でも恭順謝罪で押し通して、京師変動の首領
等は厳刑に処し、たとえ領地は十萬石に削ら
れても、また君公の御身上に対して難題を申
しかけられてもいたしかたない。この際は君
を軽しとし社稷を重しとする方針で、どこま
でも謝罪をして、毛利家の社稷を存しなけれ
ばならぬという論であった。

この恭順派を我々の方では俗論党と唱えまし
たが、この俗論党が漸々政権を握るようにな
ったので、高杉君は辞職して萩へ帰ってしま
った。

私は世子公より御内書を下されて、朝廷の事
を深く御憂慮になった御精神に感激し、是非
この俗論党を抑えつけて、幕府と抗戦しなけ
ればならぬというので、内密に君公御父子に
願って御前会議を開き、同志の政府員等と共
に俗論派の主意を攻撃して、断然武備恭順の
国是を御定めになるようにと論じたところ
が、終に忠正公の御英断で、武備恭順の方針
を探ることに決定いたしました。これが九月
の二十五日であったが、その晩に政府を去っ
て自宅に帰る途中で、刺客の為に殆ど致命傷
ともいうべき重傷を受けました。これらの次

第も詳しく話しますれば、長くなりますの
で、主として高杉君と関係した事を話すこと
に致しますが、私が負傷してと臥床している
と、高杉君が萩を脱走して訪ねてまいりまし
た。これがちょうど十月二十五日であったと
思います。

その時私も大いに喜んで、七絶一首を作って
差し出しますと、高杉君もその韻に和して、
一首を作ってくれました。この時高杉君はか
くかくの方針をもって藩論を回復するといっ
て、自分の志を私に告げ、それから山口を脱
走して徳地に参りまして、野村和作、山縣狂
介などに会ってその志を告げて、富海から馬
関を経て筑前に脱走いたしました。

高杉君の方針では、九州の同志を聠合して、
外から内の同志者と相応じて、国論を回復す
るつもりであったのであるが、どうも思い通
りに事が行われぬので、筑前の有志月形洗蔵
等の心配で女丈夫野村望東尼の山荘に潜伏い
たしました。その時月形等の同志は広島へ出
張の征長総督と長州との間を往来して、無事
に事を納めようとして、しきりに周旋してお
りましたが、そのうち長州政府は三大夫の首
を斬って幕府の軍門に差出し、その参謀たる
四人を斬殺して謝罪の証となし、また君公御
父子を寺院に蟄居せしめたので、高杉君と同
志の団体たる奇兵隊その他の諸隊は身を措く
に他無くして長府に移りました。

これ等の次第を月形洗蔵が手紙にしたため
て、高杉君の所に送ったので、君は始めて故
国の形勢が危急に迫って、一日も坐視すべか
らさるを知り、奮然蹴起して、是非国に帰っ
て俗論党を討滅して、国論を回復しなければ
ならぬと決心し、筑前を立って馬関へ帰りま
したのが十一月二十五日であったと考えま
す。

帰って来て諸隊の長官等と会見して、是非共
に兵を挙げようではないかと申しますけれど
も、諸隊の長官等は時期尚早論で、今少し人
事を尽くして干戈を動かさなければ、名義が
立たぬといって応じない。けれども高杉君の
論では、今このままで推移ると、この団体の
人数も追々減少して、遂に解散するような事
にたち至るかもしれぬ、一日も早く兵を挙げ
なければならぬという趣意であって、終に十
二月十五日の晩に、遊撃隊を力士隊の二隊を
率いて馬関へ出で、新地の会所を襲いまし
た。会所を襲ったといっても、この時はただ
会所を取囲んで金穀を強奪したのみで、その
近傍の寺院に屯していると、萩政府では諸隊
が暴動を始めたというので、忽ち諸隊追討の
命を発しました」。

暗殺されかけた辺りから、
自分の事ばかり話していたと気が付いて、
今更ながら話が長くなるから、
高杉君の事を主に話す
と言っています(笑)。

演説は続きますが、次でラストです。
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