まだまだまだ井上の演説は続きます。
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「かように下関は遂に開戦となったものであ
るから、前田も帰り、私もその跡を追うて山
口へ帰りまして、両君公に拝謁して、馬関は
必ず敗れます、馬関が敗れたならば、外国艦
隊は小郡に来て、陸戦隊を上陸せしめ、そう
して山口に侵入するに違いない。ついては私
に一大隊の兵を貸して下さい。そうすれば小
郡を死所と定めて、二日間は必ず止めますか
ら、その間にお覚悟なさるようにと言うたの
で、遂に私に第四大隊を管轄するようにとい
う命令が下った。その時、高杉君も罪を許さ
れて山口に出て、軍務掛とかいうことを命ぜ
られておったのである。そうして伊藤も山口
におったので、三人が小郡を死所と定めて、
斃れてやむという精神で外兵を喰い止めよう
ということを誓い、共に小郡に出張すること
となった。
私が小郡に出張する時に、小郡代官という事
を命ぜられましたけれども、死ぬる場合に代
官も何も要るものではないといって、断ろう
としたところが、高杉君が、イヤ断わらぬが
よい、君が代官となっておれば、戦をするの
に兵隊を繰出したり何かするのに極めて都合
がよいからと言うものですから、私も代官の
命を受けて小郡に出張致しました。
私が小郡に出張すると、続いて世子公も馬関
の軍勢を自ら指揮なさるということで、政務
員等を従えて御出張になった。その時私ども
は勘場即ち小郡の代官所におって、防戦の部
署を定めておりましたところが、その翌朝政
務員が代官所へ会合して、しきりに和議の説
を仄めかす者があったから、私は大いに憤慨
して、未だ戦わざる前には戦論を主張し、戦
が始まるとまた和議論を主張するというよう
な無節操な事では、国家が維持されるもので
はない。諸君はたとえ防長二州は焦土となる
とも、どこまでも攘夷を遂行するという明言
したではないか、その決心ならば、どこまで
も奮戦して斃れて後やむがよい、そうしたな
らばたとい国が滅びても、後世に至って、長
州は頑固ながらもよくその初心を貫いたとい
って、わずかに面目を保つことが出来よう
が、朝には戦論を主張し、夕には和議論を主
張するような飄然たる国是では、一国を維持
することの出来るものではないという主張で
激論に及んだ。
しかるところ御使が来て世子公のお召という
から、高杉君に導かれて出てみますると、世
子公が権道を以て和を議すと書いて示され
た。私は理論に拠ってその不可なるゆえんを
極諫致したところが、世子公がまた信義を以
て和を議すと書いて示されたので、私はまた
かように御心が変ずるようでは、和議の命は
受ける事は出来ませぬと言って、ひどく世子
公にむかって論じたところが、高杉君が、君
のように激論ばかりしては、今日危急の場合
何の益もないのみならず、却て害を招くよう
なものであるからといって、私を説論したこ
ともある。
これらの事を詳しく話すと、なかなか長くな
るから、その大略に止めて置きまするが、つ
まり和議をした以上は、幕軍に向かってどこ
までも抗戦し、幸に勝利を得たならば、日本
の政権を朝廷に復帰するという御決心を示さ
れたので、終に私どもが和議の命を請けるこ
ととなったのであります。
しかし和議の使節というと、私如き一介の書
生ではいけない、一番家老を用いなくてはな
らぬ。けれども家老の中でその任に堪える人
がないから、どうか高杉君を家老として、和
議の使節にお命じになったらよかろうと建議
に及んだ。そこで高杉君が宍戸備前の養子と
いうことになって、宍戸刑馬と改名して馬関
に出張することとなりました。
我々が高杉君に随行して馬関に出張したのは
八月八日であって、漸く和議の談判を開くこ
とが出来ましたが、和議に関する忠正公の御
書面の不備の点もあり、旁々でどうしても船
木まで帰って談判の模様も復命し、かつ君公
の御書面も書換えなければならぬので、高杉
君と伊藤は船木へ帰りましたが、私は一人馬
関に残って、外国人が交渉して来る事務を処
理し、また台場の大砲を軍艦に運ぶことの談
判などをしておったところが、高杉君と伊藤
の両人から飛脚を以て手紙を寄越した。
その手紙を見ると、船木では君側を初めその
他の人々が非常に憤慨して、このたび和議を
結ぶこととなったのは、高杉、伊藤、井上の
三人が世子公に勧めて、君命を矯めてやった
ことであるから、彼らを斬り殺すという激論
が起こったので、我々二人は大いに憤慨し、
直に船木の有帆村という処の民家に潜伏した
から、君も早く来いという事であった。
けれども私は今申す如く、馬関砲台の大砲を
外国人が軍艦に運ぶことの処理をしておる最
中であるから、直ぐには往くことが出来ぬ、
そのうち船木よりまた八月の談判に約束した
通り、十日の正午から再び談判を開くため、
講和使節が出張するから、その通辧をせよと
いう命令を伝えて来た。これも打捨て置かれ
ぬので、十日の談判に参列して、通訳の労を
とったのである。この時は高杉君が潜伏して
いるので、毛利登人が毛利出雲と変称して、
正使となって来たのである。
それでその日の談判をすまして、すぐに船木
に帰り、直ちに世子公に拝謁して、高杉、伊
藤の二人は攘夷論者が斬殺すというので、潜
伏しているそうでありますが、私どもは決し
て自ら好んで和議の任に当たったのではな
い。むしろいったん戦を始めたならば、斃れ
るまで戦うがよいと主張したのであるが、御
前を始め政府諸員は是非和議をする、和議を
した以上はまた攘夷論に変ずるようなことは
ない。そうして幕軍と抗戦するの決心は確乎
として動かぬという御決心でありましたの
で、止むを得ず泰命したのであるということ
を申し上げ、それから君側を初め政府の諸員
を世子公の前に召集して、その趣旨を陳弁し
たところが、政府員等は一言も異議を唱える
ことが出来なかったのみならず、前決議は決
して動かさぬと誓言した。
しからば高杉と伊藤をお呼出しになって、再
び和議の使節をお命じになるようにと申上げ
たので、世子公より使者を以て二人を召還さ
れることとなった。それで十四日の談判には
高杉君が正使となって、我々が通訳の労をと
ったのである。そうして遂に止戦條約を結ぶ
ことが出来ました」。
話が暴走しても高杉君と呼んでいるのは、
式典だからというだけとは思えません。
井上は晋作の事を「高杉君」と呼び、
伊藤を「伊藤」と呼び捨てたのでしょう。
四国艦隊との講和に至るまでの段階で、
晋作のお株を奪う暴れっぷりの井上ですが、
晋作は冷静に制していたようですね。
「兵が扱えるから小郡代官を受けるべき」
と忠告し、
「激論ばかりでは益なく害を招く」
と諭じています。
井上の演説は、もうちょっと続きます。
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