高杉晋作顕彰碑物語⑥/井上馨の演説3

井上の演説はまだまだ続きます。
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それから英仏米蘭の四ヶ国の艦隊が、下関
へ来襲することの報知が山口に達したもので
あるから、急に私は山口に呼び返された。

山口に帰ると即日御前会議が開かれて、私と
杉徳輔とに、外国艦隊が来るから馬関へ出て
和議の談判をしてくれということであったけ
れども、私はたとい君命たりとも、このこと
はお請けすることが出来ないといって拒ん
だ。

何故ならば、私は帰朝以来攘夷の行うへから
ざることを懇々と説いて、是非開国の方針を
とらなければならぬという事をしきりに主張
したけれども、攘夷派どこまでもやり通さね
ばならぬ、たとい防長二州は焦土となると
も、やり通すという決議であった。しかるに
今四ヶ国の艦隊が来るというと、にわかに前
言をひるがえすような無定見、無節操の政府
では何事も出来るものではないという主意を
主張したからである。

ところがその会議半ばに、国貞直人という人
が、京都に変動があって世子公と五卿方は只
今室津まで帰っておらるるという報知を持っ
てきた。この京都の変動というのは、その以
前伏見山崎等に屯していた長州人が京都に押
し寄せ、禁門の守兵と戦って、来島は討死
し、久坂等は切腹するような次第で、総崩れ
となったので、世子公等も途中より引返され
たのである。それで忠正公はその報知を聞く
為にその席を立たれたので、この日の御前会
議は中止となった。

それから忠正公は政府員を従えて三田尻に出
張になり、世子公並びに五卿方をお出迎えに
なって、三田尻で二度も御前会議が開かれ
た。その会議は、四ヶ国の艦隊はすでに馬関
に襲来するに相違ない。また幕府の方では長
州人が禁門に向かって発砲したという罪を鳴
らし、征討の師を差し向けんとする勢いであ
る。実に内外腹背に敵を受けることとなった
が、この難局に処するには、如何なる方法を
探ってよいかということ議するのであった。

その御前会議の前に、宮市の小山勘左衛門の
宅で下会議をするというので、政府員等が集
まって、私もその席へ招かれたのであるが、
ひどく議論して、終に山口に帰ってしまった
ものであるから、この二度の御前会議に参列
しなかったが、聞くところによると、この会
議において、内外腹背に敵を受くるのは得策
ではないから、外国艦隊に向かっては假に和
議を結んで、一方の幕府に当たるということ
に決したそうである。

それで伊藤と松島剛蔵がその命令を持って外
国艦隊の假り碇泊地たる姫島に向かいました
が、伊藤等二人が姫島に着せざる前に、外国
艦隊は早や姫島を発して馬関の方へ向かっ
た。それで山口では急に御前会議を開いて、
私に和議の応接をしてくれということになっ
た。私は前に申した如き論であるから、容易
に引き受けなかったが、政府員等が君公の思
召しであるというて、しきりに勧めるもので
あるから、しからば微力を尽くしてみましょ
うが、外国人の方では私を一介の書生と思っ
ているから、私の言う事に重きを置きますま
い、誰か政府の人を一人御派遣になるがよろ
しかろうと申しますと、政府員の前田孫右衛
門が、それでは私が行くことにしようという
ことになった。

けれども馬関の砲台を守ってる奇兵隊その他
の諸隊は熱心な攘夷論者であるから、先ず之
を説論しておかなければ、我々が外国艦隊に
乗り込んで応接する最中に、発砲する如きこ
とがあっては、折角の談判も水泡に帰すると

いうと、前田がそれは自分が引き受けるとい
って、即時毛利登人、山縣弥八などを馬関に
派遣した。そこで前田と共に早打ちで馬関に

着したのが八月五日の朝であった。それから
奇兵隊の長官その他を呼んで、しきりに説論
するけれども、なかなか折り合わぬ。余り手
間どるものであるから、戸田亀之助という者
を外国船にやって、和議の応接を致したい
が、少し事情があって手間どるから、しばら
く発砲を猶予してくれと申し込むと、しから
ば二時間の猶予を与えようということであっ
た。

それで前田その他がしきりに諸隊の長官等を
なだめた結果、先方から砲撃しなければこち
らからは決して撃たぬということだけを承諾
した。そこで前田と二人で阿弥陀寺の埠頭へ
出て、小舟で外国艦隊へ漕ぎつけようとする
と、外国艦隊の方から発砲を始めたものだか
ら、前田の砲台もこれに応砲するということ
で、終に激戦となってしまった。私等が阿弥
陀寺の埠頭へ出た時は約束の時間よりも殆ど
二時間も遅延しておったので、外国艦隊が自
ら砲火を開いたのは無理からぬことであ
」。

顕彰するべき高杉晋作そっちのけで、
自分の事を中心に話ます。
・・とはいえ貴重な証言ですね。
御前会議が頻繁に開かれてる様子が、
幕末の長州藩らしいですね。
井上と前田孫右衛門が和議の為に、
方々手を尽くしていますが、
攘夷派の説得に苦労したのがわかります。

そして、まだまだまだ演説は続きます。
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