東京都港区 長谷寺/井上馨墓所

長谷寺は西麻布にある曹洞宗の寺院。
牛久藩初代山口重政が創建し、
門庵宗関を開山に迎えています。
駒込の吉祥寺、三田の功運寺と共に、
曹洞宗の檀林所であったとされ、
後に永平寺東京別院となりました。

この長谷寺墓地に井上馨の墓があります。

長谷寺」。
東京大空襲で被災しており、
伽羅の全てが焼失したようで、
現在の建物は戦後に再建されたもの。
現在も修行僧の教育機関であり、
全国から僧侶が集まって寝食を共にし、
日夜修行を行っているようです。


従一位大勲位侯爵井上馨墓」。
井上馨は長州藩士井上光亨の次男に生まれ、
志道家の養子となり志道聞多を名乗ります。
※後に井上家に復帰。
藩主毛利敬親や世子毛利定広の小姓を勤め、
後に尊皇攘夷運動に邁進するようになり、
高杉晋作久坂玄瑞らと御楯組を結成。
英国公使館焼討ちを行うなど、
過激な攘夷活動を行いますが、
文久3年には伊藤俊輔山尾庸三井上勝
遠藤謹助と共に英国へ密航しており、
※長州ファイブ。
翌元治元年に下関が砲撃されると知り、
急遽帰国して和平交渉に尽力しました。
長州征伐では武備恭順を主張した為、
俗論党に襲われ瀕死となりますが、
所郁太郎の手術で一命を取り留め、
高杉晋作の功山寺決起には、
傷身のまま鴻城軍総督をして参戦。
正義派政権が樹立すると、
晋作や伊藤と共に下関開港を図り、
これが攘夷派に避難された為に、
危険を感じて別府に潜伏しています。
再び長州征伐が近づいてくると帰国し、
幕長戦争では芸州口を担当。
新政府樹立後は参与兼外国事務掛
九州鎮撫総督府参謀長崎府判事
造幣局知事等の役職を経て大蔵省に出仕し、
事実上の長官として各省と対立しますが、
江藤新平らに汚職を追求されて辞職。
一時政界から身を引いて三井組と関わり、
実業界に身を置いていましたが、
伊藤博文の要請で政界に復帰し、
政府間で得意の周旋能力を生かしました。
明治9年には日朝修好条規を締結。
同年に経済を学ぶ目的で渡米しますが、
木戸孝允の病死や西南戦争
大久保利通の暗殺を伝えられ、
明治11年に帰国しています。
帰国後は参議兼工部卿外務卿を歴任し、
伊藤と結託して政敵大隈重信を追放。
海運業を独占する三菱に対抗し、
共同運輸会社を設立していますが、
両者痛み分けとなって和睦し、
これを合併して日本郵船を誕生させました。
不平等条約改正の為に鹿鳴館を建設し、
鹿鳴館時代を主導。
伊藤が内閣総理大臣に就任すると、
外務大臣に就任して条約改正に専念。
しかし改正案内容の反対運動が起こり、
外務大臣を辞任しました。
次の黒田清隆内閣農商務大臣となり、
第二次伊藤内閣内務大臣に就任。
伊藤が交通事故で重傷を負った際は、
総理臨時代理を務めています。
日清戦争が勃発すると内務大臣を辞任し、
朝鮮公使に就任。
第三次伊藤内閣では大蔵大臣となり、
第四次伊藤内閣では選に漏れるものの、
次の総理として大命降下を受けました。
しかし組閣作業に入るものの、
渋沢栄一に大蔵大臣就任を断られ、
渋沢抜きでは政権運営は出来ないと断念。
代わりに桂太郎を首相に推薦しています。
日露戦争では戦費調達に奔走し、
その後も元老として君臨していますが、
大正4年に死去しました。


侯爵夫人井上武子之墓」。
井上馨の後妻井上竹子の墓。
幕臣岩松俊純の娘に生まれ、
大隈重信の仲介で井上馨と結婚。
明治9年の井上の渡米に同行し、
欧米を歴訪した際に西洋式社交術を修得。
井上の推進する鹿鳴館の開館後は、
妻として夜会を取り仕切り、
他の高官の妻に社交術を指導しました。
井上没後の大正9年に死去。

他の維新の元勲の墓所は、
非公開であったりする事が多いですが、
普通に参拝可能なのは好印象。
色々と理由はあるのでしょうが、
完全非公開の人物よりは、
明らかに好感が持てますね。

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