かつて彦島は引島と呼ばれていいました。
約800年前の保元二年(1157)1月。
保元の乱に敗れて都落ちし、
河野通次が九州へ落ちのびようと、
※この通次は河野家系図に記載なし。
関門海峡を渡っていましたが、
夕日が引島の瀬に落ちかかって美しく、
これに打たれて夜露をしのごうと上陸。
翌朝に家臣らと共に島内を調べると、
再興を図る場所に最適であると感じます。
そこで家臣ら園田一学、二見右京、小川甚六、
片山藤蔵、柴崎甚平の5名と共に、
粗末な屋敷を建てて仮寓することに。
そして主従は島を開拓して、
農業や漁業に励みながら再興の機会を待ち、
挙兵の日を夢見て過ごしたという。
そして20数年の月日が過ぎ、
源氏と平家が争って平家が敗れると、
寿永3年(1184)に平知盛が引島にやって来て、
源氏を迎え撃つことになります。
しかし翌寿永4年(1185)3月24日に、
平家は壇ノ浦の戦いで滅亡。
生き残った平家方の植田治部之進、
岡野将監、百合野民部が、
後に和田伝済、冨田刑部之輔、登根金吾が、
引島へとやってきます。
彼らは河野通次ら主従に身分を明かし、
平家の再興に力を貸して欲しいと嘆願。
河野家再興を願う同じ境遇の彼らは、
手を取り合って協力を誓い合い、
彼らが彦島十二苗祖となりました。
彦島トンネルを北側から出ると、
陸橋へと繋がっていますが、
その陸橋南詰の西側辺りに、
十二苗祖の墓とされる墓石群があります。
※トンネル側から直には行けません。
「彦島開拓の祖 十二苗祖墳墓」。
誰が誰の墓かは全くわかりませんが、
彦島を開拓した十二苗祖の墓とのこと。
その後、一遍上人の高弟西楽法師が、
健治2年(1276)3月にやって来ます。
西楽法師は12家の再興話を耳にすると、
その悲願を諦めさせて開拓に専念する様に、
一人ずつ説いて周りました。
彼らは初めは耳を貸そうとしませんでしたが、
西楽法師の熱心な説得で心を開き、
やがて12家の人々も挙兵の虚しさに気付き、
悲願を捨て去る事となります。
そして彼らは引島に永住する事を誓い、
農業、漁業、工業にいそしんだという。
現在の彦島でもこの名字は見掛けますので、
多分彼らの子孫なのでしょうね。
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