壇ノ浦の戦いで平家が敗れた為、
平家に仕えたの女官や雑仕女達は、
彦島の平家一門の住居跡や、
漁師の家に匿われて潜んでいましたが、
彼女達は源氏の兵士達の格好の餌食となり、
陵辱の限りを尽くしました。
多くは乱暴を受けた後に殺され、
命を助けられた者も自ら命を絶ったという。
彦島老町にある身投げ岩近辺は、
壇ノ浦から最も離れた場所であった為、
特に多くの女性達が隠れていました。
従って源氏の兵の凌辱を受けた女性は多く、
彼女達は源氏兵から逃れる為に、
また辱めに耐え切れずに、
次々と断崖の岩から身を投げたとされ、
身投げ岩と呼ばれるようになります。
「身投げ岩」。
対岸の伊崎町から撮影した身投げ岩。
吉田松陰は嘉永2年7月18日、
伊崎厳島神社に参拝した後、
日和山を越えて身投げ岩を見ています。
彦島に渡って身投げ岩へ。
「桃崎稲荷大明神」。
身投げ岩の上には祠が設置されており、
身を投げた女性達を慰めています。
木々で見えにくいですが、
結構な断崖となっています。
現在の大和町が埋め立てられる前は、
この小瀬戸は日本一流れが早かったとされ、
身を投げれば一溜りもなかったようです。
最後に彦島大橋を望む。
彦島大橋は昭和50年の完成時、
世界最長のコンクリート橋でした。
この橋の下を毎日500隻の船が通るされ、
僕も毎日この橋を使って通勤しています。
■関連記事■
・下関市伊崎町 小門の報済園
伊崎にある廃墟。
・下関市伊崎町 伊崎厳島社/鈴ヶ森稲荷社
松陰は厳島社参拝後に身投げ岩へ。
・下関市彦島 清盛塚
平清盛の分骨を埋葬したとされます。