愛知県田原市にある城寶寺に、
渡辺崋山の墓があります。
「城寶寺」。
弘法大師によって開創されたものとされ、
かつては幸徳寺と称していましたが、
後に浄土宗へと改宗しており、
徳川家康の居城元城の鎮護の寺として、
※元城=曳馬城。後の浜松城。
寺名を城寶寺と改称しました。
弁財天の寺としても知られており、
東海七福神のひとつなっています。
城寶寺の隣には寺院が3軒並んでおり、
田原城の守りの一部でもあったという。
「城宝寺古墳」。
境内には渥美半島最大の古墳があり、
城宝寺古墳として県史跡に指定されており、
横穴式石室も残されています。
「本堂」。
本堂には美しい天井画があるようですが、
時間の関係から拝見はしていません。
「渡邊家墓所」。
山門を越えた左側にあります。
中央に渡辺崋山、両脇に母と妻、
左右に息子夫婦の墓があり、
渡辺家累代の墓もありました。
「崋山先生配和田氏之墓(左)」、
「崋山先生渡邊君之墓(中央)」、
「巴洲先生配河邨氏之墓(右)」。
渡辺崋山とその母栄と妻たかの墓。
田原藩藩士渡辺定通の長男に生まれますが、
父定通が養子であった事から禄を減らされ、
幼少期は極貧の生活であったという。
この為に得意の絵を売って生計を支え、
才能を認められて南画家谷文晁に入門。
画家として知られるようになります。
絵とは別に藩主継嗣亀吉の伽役も務め、
亀吉の早逝はその弟元吉の伽役となり、
※元吉は後の10代藩主三宅康明。
父も出世して禄を戻されて生活は安定し、
その父の死後に32歳で家督を継ぎました。
天保3年には家老職となり、
農学者大蔵永常を田原藩に招聘。
また報民倉を設置して食料備蓄を行い、
後の天保の大飢饉ではこれが功を奏して、
領内で餓死者を出させず、
唯一幕府に表彰されています。
紀州藩儒者遠藤勝助の尚歯会に参加し、
高野長英、小関三英、江川英龍など、
多くの学者達と意見交換していますが、
モリソン号事件を受けて慎機論を執筆し、
幕府の外国船打払政策を批判した為、
蛮社の獄によって捕らえられ、
吟味の末に蟄居を命じられました。
池ノ原屋敷で余生を過ごしていましたが、
生活の為に書画を売った事が問題視され、
屋敷の納屋で切腹。
崋山の墓の建立は許されなかったようで、
この墓は幕府崩壊後に建立されたもの。
「小華渡邊先生之墓」。
崋山の次男渡辺小崋の墓。
父崋山は小崋が7歳のときに自刃し、
崋山の門人福田半香の勧めで江戸に出て、
同じく門人椿椿山の弟子となり絵を学ぶ。
世子三宅康寧の伽役となり、
絵画の相手を務め、
兄渡辺一学が急逝した為に家督を相続。
元治元年に田原藩の家老職に就任し、
動乱期の藩政を支えています。
維新後は田原藩参事に就任し、
廃藩置県後は画家の道を進む事を決意。
ウィーン万国博覧会、
内国勧業博覧会に出展し、
次第に父譲りの画才を発揮するようになり、
一流画家として知られるようになりました。
明治20年、死去。
崋山は田原藩士で家老にも就任した武士で、
農政などで成果を挙げた施政家であり、
幕府を批判した思想家でもありましたが、
その生来は画家であったようで、
特に肖像画の迫力は目を見張ります。
子の小崋が画家の道を歩んだように、
もし普通に隠居していれば、
その後は気ままに画家として、
第二の人生を送っていたのでしょうね。
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