鹿児島県鹿児島市 城山~南洲墓地

鍛冶屋町を巡った後で車で城山へ。
城山は鶴丸城の裏手にある険しい山で、
西南戦争で西郷軍が立てこもった場所。
前回の鹿児島訪問時には行けなかったので、
今回はどうしても行きたかった所です。


城山周辺。
西郷軍の最後の足取り順に巡ってみる。
カメラの調子がかなり悪く、
今回は写真がいつもより酷いです。


明治十年戦役薩軍本営跡①」。
写真がボケすぎて何がなんだかわかりません。
・・ふと思ったんですが、
西南戦争」「西南の役」の名は、
どこから付けられたのでしょう?
他の不平士族の反乱は「神風連の乱」、
秋月の乱」、「萩の乱」と、
「の乱」という名前が付いていますが、
「西南戦争」は「戦争」です。
大規模だったので「乱」ではなく、
「戦争」にしたのでしょうけれど、
「神風連」は反乱した組織の名称、
「秋月」や「萩」は地名となっており、
「西南戦争」の西南はなんなんでしょう?
日本の南西部で起こったので、
「南西戦争」というならわかりますが、
南西とは言いますが西南とは云いません。
この答えを調べてみると、
古来は東、西を先に言う習慣があり、
北、南を先に言うのは明治中期以降とのこと。
東北地方もその習慣の名残だという。
まあそうなんでしょうけど、
九州を「西南」と呼ぶ例をあまり聞きませんね。
どうしても「西郷南洲」由来と思ってしまう。
大塩平八郎の乱」とか「平将門の乱」とか、
人名が使われてる事もあるので、
「西郷南洲の乱」でもいいわけで、
先程の大規模なので「戦争」としたと考えると、
西戦争」となり、
長いので「西南戦争」となったんじゃないかと。
なんだか陰謀説になりそうなんでやめます。


南州翁洞中記念碑②」。
最後の五日間を過ごしたのが、
この洞窟で一般に西郷洞窟と呼ばれます。


洞窟は意外に深くありません。
寝泊りするには一人がやっとですね。


西郷隆盛の大きな像があり、
その奥には西南戦争の経緯が、
絵で展示されているそうですが、
早朝なんで電気が点いていませんでした。


道路向かいにも西郷どんがいます。


南洲翁終焉之地③」。
西郷洞窟から坂を下った場所。
ここで「晋どんここらでよか」と、
西郷が言ったのでしょうね。


西郷南洲顕彰館④」。
最後は西郷軍戦死者が眠る南洲墓地へ。
敷地内に西郷南洲顕彰館がありますが、
早朝なんで開いていません。
西郷関係の資料が展示されてるようです。


南洲墓地」。
巨大な墓石が無数に並ぶ光景は圧巻。
招魂場の奥都城を見慣たせいもありますが、
これは大迫力です。

知った名前もちらほら見られます。
ここには2023名の将士が眠っています。


西郷隆盛墓」。
「西郷隆墓」と書いているように見えます。
両脇は桐野利秋篠原国幹の墓が左右を固め、
村田新八辺見十郎太別府晋介桂久武ら,
幹部の墓が続いています。
その光景は西郷軍そのものだと言っても、
過言ではないかもしれません。


南洲神社」。
墓地の側にある南洲神社。
もちろん西郷隆盛命が主祭神。
境内にある戦没者名簿には、
2023名全ての将士の名前が刻まれており、
その多さには驚かされます。

早朝から鍛冶屋町~城山と周りましたが、
車も少なかったので目的どおり事が運びました。
まだ鹿児島には行きたいところがありますが、
今回はこれで打ち止めです。
南洲公園より仕事の現場へと向かいますが、
あいにくの天気で小雨もぱらつき、
前回同様に桜島は見れませんでした。
次回こそ桜島の雄姿を拝みたいと思います。

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