第5回「栄一、揺れる」
岡部藩の代官の御用金を上納した後、
尾高惇忠からアヘン戦争の事を聞き、
夷狄の脅威が迫っていると知る栄一。
道場の仲間もこの危機を危惧して剣術に励む。
渋沢家では姉なかの縁談を叔父母が反対。
相手は栄えているが憑き物がいると噂の家で、
関わると渋沢家も憑き物に憑かれるとの事。
結局破談となってなかはショックで呆然。
なかに憑き物に憑かれたと思った叔母は、
中の家に祈祷師を呼んでお祓いをさせる。
栄一は憑き物などいないと祈祷師を追い出し、
これを見たなかは元気を取り戻す。
一方で江戸では安政東海地震が発生。
露軍艦ディアナ号は沈没し幕府はこれを救助。
徳川斉昭はこの方針を不服として、
老中阿部正弘に詰め寄りますが、
腹心の藤田東湖に諭されています。
そしてその後に安政江戸地震が発生して、
江戸城も大被害を受けていますが、
藤田東湖も犠牲となってしまう。
——–
藩の御用金で身分制度に不服の栄一ですが、
欧米諸国に清国が蹂躙されている事を知り、
身分を忘れて日本の未来を危惧しています。
この辺の整合性はどのようにするのでしょう?
北大路欣也の徳川家康のナレーションでは、
「士と農工商の差」について語られましたが、
その語りほど線引きはしっかりはしていない。
後に栄一は一橋家に仕官しているのですから、
藩を越えれば身分制度など無いようなもので、
これは渋沢栄一に限った話ではなく、
大村益次郎やジョン万次郎、新選組などなど、
幕末期に武士となった者も多いわけです。
憑き物のエピソードは何を意味するの?
これは上記の身分制度という悪よりは、
もっと根本的にある庶民の迷信というものが、
諸悪の根源というように感じられました。
確かに憑き物などはナンセンスに思えますが、
僕は”前向きな”神仏への信心は否定しません。
簡単な例を挙げるとするならば、
運が悪いなと思ってお守りを持ったり、
神社仏閣にお参りに行ったり、
お祓いをして心が晴れるというのは、
別に悪い事ではないと思う。
現代のプロ野球だって連敗が続いたりしたら、
神社でお祓いをしてもらう訳ですが、
これは彼らが憑き物を信じているからではなく、
お祓いをする事で新規一転して、
連敗をストップしようとするわけです。
なかも祈祷師が祠を造って祀れというなら、
祠を祀れば祟りを恐れる村人も納得するわけで、
本人も新規一転で新しい恋(?)に向かえるし、
村人から変な目で見られる事もない。
なんなら相手のところにもお祓いに行って、
縁談が再開となって皆が幸せになれるのでは?
祈祷師達が大金を要求している描写でもあるか、
その後になかの縁談が元通りとなれば別ですが、
彼らは祈祷師の仕事をしていただけなので、
なんだか可哀想な感じがしました。
「強く見える者ほど、弱き者です。
弱き者とて、強いところもある。
人は一面ではございません」。
上記は千代のセリフですが、
合理主義だけで生きていける程、
それほど人は強くないと思いますね。
阿部正弘に詰め寄る斉昭を諫める藤田東湖。
「かけがえのない者を災害で亡くす」
というセリフは、
ディアナ号救助と絡めるのは少々強引ですが、
これは藤田の完全なる死亡フラグでしたね。
こういう死亡フラグの不思議な関連性って、
神仏の業とも捕らえれるわけじゃないですか?
神仏を完全否定しときながらどうなの??
青天を衝け5
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