禁門の変を起こした長州藩を討伐する為、
将軍徳川家茂自ら上洛する事となり、
道中の宿泊所に膳所城が選ばれます。
膳所藩にとって大変名誉な事で、
藩をあげてこれを迎えるにあたり、
二ノ丸御殿の改修が決定。
保田正経、阿閉信足、田河武整の3人が、
その普請奉行となりました。
改修工事は急ピッチで行われ、
将軍到着の数日前に滞りなく完成しますが、
前々日になって京都守護職の松平容保より、
藩士らが将軍暗殺を企てているとし、
宿泊所を大津宿に変更する通知が届きます。
これに藩内は大騒ぎとなり、
藩は保田ら3人を含む尊攘派11人を投獄。
※容疑のある70余名が一斉に検挙され、
尊攘派の11人以外は後に釈放。
容保に変更の中止を求めますが認められず、
将軍の行列は膳所城下を通り過ぎました。
その五ヶ月後に11人に死罪が言い渡され、
保田らと江戸から呼び戻された槇島光顕が、
城下の安昌寺にて切腹しています。
「安昌寺」。
安昌寺の前身は三河国伊奈の東漸寺で、
膳所藩初代本多康俊の西尾藩移封の際、
一緒に移転して安昌寺と改称しています。
その後も膳所、伊勢亀山と移転。
本多家の膳所藩再封で現在地に移りました。
「膳城烈士官修墳墓」。
左奥から田河武整之墓、阿閉信足之墓、
右奥から保田正経経墓、槇島光顕墓、
中央は烈士供養塔。
本堂向かって左側にあります。
百石以上の4人には切腹が言い渡され、
安昌寺にて切腹。
※他7人は斬首。岡山霊園に墓があります。
親族は膳所十里四方所払が命じられ、
故郷を追われる事となりました。
事件は安田らと対立する上坂三郎右衛門が、
京都守護職に密告したことが発端で、
暗殺を企てたという真偽は不明です。
そもそも藩ぐるみの犯行でなけれは、
京都守護職へ密告する事自体が変で、
本当にそのような企てがあったのなら、
改易も免れない程の事件ですので、
証拠は見つからなかったのでしょう。
※釣り天井を仕掛けている疑惑だった。
しかしながら藩としての顛末を付ける為に、
保田ら当事者の処刑が決定され、
11人はこれを受け入れて刑に処されます。
その彼らの名誉が回復するのは、
維新後の明治3年になってからでした。
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丹保之宮に十一烈士が祀られています。