大坂府池田市 佛日寺/麻田藩青木家墓所

佛日寺池田市にある黄檗宗の寺院。
麻田藩2代藩主青木重兼が開基し、
天王山山麓に松隣寺を建立した後、
現在地に移転しました。
その後に黄檗宗開祖隠元禅師を招来し、
開山として佛日寺と改称。
萬福寺3代住持慧林禅師を初代とし、
青木家の菩提寺としています。


佛日寺」。
山門本堂も新しいもので、
当時の建物は残っていませんが、
藩政時代は本堂の他に29宇を有し、
寺領200石を持つ巨刹でしたが、
明治以後は寺禄が絶えて境内は縮小。
更に災害や農地改革で廃れていましたが、
多目的近代禅院として復興して、
現在に至っています。
山門は阪神淡路大震災で倒壊しますが、
その翌年に再建されました。

青木家の墓所は境内から離れてた場所。
佛日寺の南側にあります。

麻田藩主累代御廟所」。
青木家の墓所には施錠がされており、
入れなくなっていますが、
佛日寺で許可を頂いて参らせて頂きました。

墓所には初代から13代藩主、
3代と9代藩主正室、11代藩主の三男、
15代当主夫妻の墓があります。

梅隣院殿華屋令曇居士覺霊」。
初代藩主青木一重の墓。
藩祖一重は駿河の今川氏真に仕え、
今川家が滅亡した為に蟄居していましたが、
後に徳川家康に召されて仕える事となり、
姉川の戦い等で武功を挙げます。
しかし徳川家を出奔して丹羽長秀に仕え、
長秀の死去後は豊臣秀吉に仕官。
馬廻を経て黄母衣衆にも選ばれており、
1万石を与えられて麻田城主となりました。
後に七手組頭に任じられ、
秀吉の死後も変わらずこれを務め、
大坂冬の陣でも大坂城を守備。
家康との和議の礼謝使節を務め、
常高院らを連れて家康に謁見しますが、
女性陣だけ帰されて一重のみ残され、
実弟青木可直を誅殺すると脅されて、
※可直は家康に仕えていた。
京都に逗留して大坂には戻らず、
大坂夏の陣には参加しませんでした。
戦後は減封なく所領を安堵されますが、
剃髪して隠居しており、
夏の陣に参加した養嫡子青木正直を廃嫡し、
可直の子青木重兼に家督を譲っています。


端山性正大和尚塔」。
2代藩主青木重兼の墓。
家康の旗本青木可直の長男として生まれ、
一重の養子となって家督を相続。
文武を奨励して善政を第一としたとされ、
有能な藩主であったという。
寺社の造営、再興に手腕を発揮し、
萬福寺2代住持木庵の許で出家ており、
所領三田の方広寺住持となっています。


陽徳院殿従五位下前甲州太守
 徹山道剛大居士塔」。
3代藩主青木重正の墓。
朝倉宣正の世子朝倉宣親の長男に生まれ、
父の主徳川忠長が改易されて朝倉家は除封。
外祖父酒井忠勝に養われていましたが、
継嗣のない重兼の婿養子となり、
重兼の娘慶雲院を正室としました。
※慶雲院の墓もこの墓所にあります。
将軍徳川綱吉から厚い信頼を得ていた様で、
危篤の際には綱吉の侍医が3名も派遣され、
その回復に手を尽くしたという。


了心院殿従五位下前甲州太守
 雄山元英大居士塔」。
4代藩主青木重矩(重安)の墓。
3代重正の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
19年の治世の後に隠居し、
16年後に65歳で死去しています。


春徳院殿従五位下前甲州太守
 瑞海元活大居士塔」。
5代藩主青木一典の墓。
4代重矩の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
24年の治世の後に死去しました。


覚翁院殿従五位下前甲州太守
 大徹浄真大居士塔」。
6代藩主青木一都の墓。
5代一典の長男として生まれ、
父の死去に伴い15歳で家督を継ぎますが、
継嗣無く29歳で病死しています。


清涼院殿従五位下〇尚食〇〇
 秋岳浄映大居士塔」。
7代藩主青木見典の墓。
5代一典の次男として生まれ、
兄の6代一都が継嗣無く死去した為、
末期養子となって家督を相続しますが、
僅か4年後に早逝してしまいました。


善應院殿従五位下前濃州太守
 心珠衍明大居士塔」。
8代藩主青木一新の墓。
5代一典の三男として生まれ、
兄の7代見典が早逝した為、
末期養子となって家督を相続しました。
16年の治世の後に隠居し、
その11年後に死去しています。


養源院殿従五位下前濃州太守
 慈眠衍瑞大居士塔」。
9代藩主青木一貫の墓。
宇和島藩4代伊達村年の三男として生まれ、
8代一新の婿養子となって家督を相続。
一新の娘保壽院を正室としました。
※保壽院の墓も墓所にあります。
18年の治世の後に死去。


正法院殿従五位下前甲刕太守
 一乗義貞大居士塔」。
10代藩主青木一貞の墓。
9代一貫の四男として生まれ、
母が8代一新の娘保壽院であった事から、
兄達は養子に出されて継嗣となり、
父一貫の死去により家督を相続しました。
藩校直方堂を創設して文武を奨励し、
35年の治世の後に隠居。
10年後に死去しています。


龍光院殿従五位下前駿刕太守
 天性本瑞大居士塔」。
11代藩主青木重龍の墓。
10代一貞の長男として生まれ、
父一貞の隠居に伴い家督を相続。
26年の治世の後に隠居しており、
11年後の安政5年に死去しました。


玄了院殿従五位下前濃州太守
 俊徳義勇大居士塔」。
12代藩主青木一興の墓。
10代一貞の六男として生まれ、
兄重龍の養子となって家督を相続しますが、
重龍に先立って僅か2年で病死しています。


泰雲院殿従五位下前甲刕太守
 一峰清咸大居士塔」。
13代藩主青木一咸の墓。
中津藩5代奥平昌高の十二男として生まれ、
12代一興が継嗣無く早逝してしまった為、
末期養子となって家督を相続しますが、
7年後に29歳で病死しています。

14代青木重義の墓はここになく、
どこにあるのかよくわかりません。
※江戸の菩提寺瑞聖寺
安政3年に僅か4歳で家督を継ぎ、
15歳で明治維新を迎えています。


正二位勲二等青木信光之墓
       青木楠枝之墓
」。
15代当主青木信光と妻青木楠枝の墓。
水戸藩付家老中山信徴の四男に生まれ、
子爵青木重義の養子となっており、
貴族院議員を50年務めています。

墓所を参拝させて頂く際、
上記した様に許可を頂いたのですが、
出て来られたのは気の良い老婦人で、
快く許可は頂いたのですが、
腰が悪いらしく申し訳なかったです。

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