成正寺は大阪市北区にある日蓮宗の寺院。
このお寺に大塩平八郎の墓があります。
「成正寺」。
慶長9年に増長院日秀の開山。
日秀は歌道が縁で豊臣秀吉の知遇を受け、
現在地に寺領を賜ったとされ、
秀吉の持仏である妙見大菩薩像を寄進し、
朝鮮出兵の先勝祈願をしたという。
大坂与力大塩家の菩提寺でもあります。
「中齋大塩先生墓(左)」、
「大塩格之助君墓(右)」。
本堂向かって右脇にある大塩親子の墓。
墓石は空襲で破壊されたようで、
現在の墓は後に再度建立されたもの。
大塩平八郎は東町奉行所の与力で、
同僚の汚職を内部告発したり、
切支丹や破戒僧の摘発などを行い、
汚職や不正を次々と暴いてたという。
隠居後は私塾洗心洞を開いて子弟を教育。
天保4年(1833)の飢饉では西町奉行矢部定謙や、
与力内山彦次郎らと充分な対策を講じ、
被害を最小限度に抑えましたが、
天保9年(1838)の飢饉では東町奉行跡部良弼が、
江戸への廻米を強行する暴政を振るい、
米価が高騰して民衆が飢餓に喘ぎます。
大塩は跡部に多くの献策をしますが、
全く聞き入れられなかった為、
武装蜂起を決断して大塩平八郎の乱が勃発。
しかし平山助次郎らの密告により、
蜂起が察知されて僅か1日で鎮圧され、
大塩は再起を謀って潜伏しますが、
潜伏先が役人に囲まれた為に、
養子大塩格之助と共に自決しました。
「大塩の乱に殉じた人びとの碑」。
大塩の乱は総勢300人程とされ、
大塩以下戦死18名、磔1名、
※上記18名は死体のまま磔。
打首獄門11名、死罪3名であったようで、
また戦火で多くの焼死者も出しており、
彼らを慰霊する為に建立されたもの。
乱の遠因である東町奉行跡部良弼は、
その後も栄進を続けたようで、
他の奉行職や若年寄等を歴任しており、
明治元年まで生きています。
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