大阪での商談時間に余裕があった為、
周辺の碑を巡ってみることにしました。
大阪に住んでいた事がありましたが、
久しぶりに来てみると、大分変わっていました。
駅前など開発されているのは当たり前ですが、
驚いたのは、地下鉄の運賃が安くなっている事。
市営から民営化されたようですね。
さて、四ツ橋線肥後橋駅より西側。
金光教玉水記念館の脇に、
頼山陽の誕生地の碑があります。
「此付近頼山陽生誕地」碑。
頼山陽は江戸時代末期の思想家で「日本外史」著者。
後の尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた他、
詩、書、画に通じた墨客としても知られています。
安政の大獄で斬首された頼三樹三郎は、
頼山陽の三男でした。
そのまま西へ進んで、土佐堀通に合流し、
土佐堀通となにわ筋の交差点北東側に、
長州藩蔵屋敷があります。
「長州藩蔵屋敷跡」。
このあたりは諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた場所で、
国許より送られる米や特産品の貯蔵庫となっていました。
七卿落ちの際、三条実美ら七卿もここを訪れたようです。
土佐堀をさらに西に進み江戸堀フコク生命ビルの隅に、
大村益次郎の下宿していた場所の碑があります。
「大村益次郎先生寓地址」。
村田蔵六(大村益次郎)は、
弘化3年より緒方洪庵の適塾に入門し、
医学、蘭学を学んで塾頭にまで進んでいます。
ここは在学中に下宿していた倉敷屋作衛門の屋敷跡。
とはいえ下宿していたのは少しの間だったようで、
その後、中央区徳井町に借家を借りています。
そうしている間に客先への訪問時間に近づいた為、
そのまま東へ戻って地下鉄を乗り継いで客先で商談。
首尾よく終了して長堀鶴見緑地線松屋町駅から、
松屋町筋を南に下って「ぜんざい屋」があった場所へ。
「贈正五位大利鼎吉遭難之地」碑。
ぜんざい屋「石蔵屋」のあった場所で、
店主の石蔵屋政右衛門の本名は本多大内蔵といい、
武者小路家の元家臣で尊攘志士でした。
この店主が脱藩してきた土佐勤王党の残党と匿い、
大坂城の焼打ちを計画していたとされます。
しかし大坂に駐屯していた新選組の谷三十郎・万太郎兄弟、
正木直太郎、高野十郎の4人の隊士が「石蔵屋」を襲撃。
この時はたまたま大利鼎吉と政右衛門だけで、
他の土佐勤王党メンバーは外出中でした。
政右衛門は襲撃をみるや一目散で逃げたした為、
残った大利に対して4人がかりで斬りつけます。
大利はこの4人に対して1人で戦い、
全身に7ヶ所の傷を受けて憤死しました。
襲撃側の新選組は、正木が右腕を四寸ほど斬られ、
三十郎が足を少々斬られ、
万太郎は喉元に傷を負ったという。
実はこの大利鼎吉。池田屋事件でも新選組と戦っており、
新選組に襲われたのは2度目。
2度目は逃げ切れなかったようです。
■関連記事■
・大阪府大阪市 適塾と除痘館
緒方洪庵の適塾跡。
・大阪市中央区 大坂城跡
土佐勤王党の残党は大坂城の焼き討ちを計画。
・大阪市北区 龍海寺(緒方洪庵墓所)
緒方洪庵の墓。