大阪府大阪市 天徳寺/毛利元康墓所他

天徳寺大阪市北区与力町曹洞宗寺院。
ここに毛利元就八男毛利元康の墓あります。


天徳寺」。
天徳寺の開創は不明ですが、
元々は現在の広島県福山市にあったとされ、
神辺城主だった元康が関係している模様で、
天徳寺では元康が開基となっています。


天徳寺殿石心玄也大居士」。
本堂脇にある毛利元康の墓。
墓石が比較的新しく感じるのは、
空襲により破損した事により修復された為。
戒名は寺名と同じ天徳寺殿となっており、
元康死後に寺名が変更されたと思われます。
元康は毛利元就の八男として生まれ、
多くの戦に参加して戦功を挙げたとされ、
末次城月山富田城神辺城の城主となり、
※末次城を与えられた際に末次姓に改め、
 末次元康を名乗ったという。
朝鮮出兵でも大きな戦功を挙げました。
関ヶ原の前哨戦では伏見城大津城を攻め、
どちらも勝利を収めていますが、
関ケ原の本戦が敗北に終わった為、
毛利家は大幅に減封されて、
元康も厚狭郡7700石に封じられます。
しかし元康自身は大坂木津に宿陣し、
慶長6年に病死してしまった為、
所領の厚狭郡に入る事は出来ませんでした。
家督は嫡男毛利元宣が継ぎ、
厚狭毛利家として幕末まで続いています。

本堂裏にある一般墓地へ。

小竹篠崎先生之墓(左)」、
篠崎小竹先生配田島氏墓(右)」。
儒学者篠崎小竹とその妻の墓。
医師加藤周貞の次男として生まれ、
儒学者篠崎三島の私塾梅花社に入門。
見込まれて養子となりましたが、
後に出奔して江戸に遊学しています。
尾藤二洲古賀精里に朱子学を学び、
大坂に戻って養父に詫びて梅花社を継ぎ、
多くの門弟を育てました。
大塩平八郎は三島門下の弟弟子でしたが、
陽明学者の大塩とは犬猿の仲だったという。


松陰後藤先生墓(左)」、
松陰後藤先生配篠崎氏墓(右)」。
儒学者後藤松陰と妻のの墓。
美濃の医師後藤玄中の二男として生まれ、
儒学者菱田毅斎に学び私塾の塾長を務め、
京都で頼山陽の私塾青山社に入門。
頼の九州旅行にも同行していますが、
母の病の報に接して帰郷しました。
後に大坂で私塾広業館を開いており、
広瀬旭荘や篠崎小竹と共に称されています。
※旭荘は廣瀬淡窓の弟。
吉田松陰は2度目の江戸遊学の途中、
※当時はまだ松陰を名乗っていません。
後藤松陰宅を3度も訪れており、
後に自ら松陰と名乗っている事からも、
訪問で何かを得たものと思われます。
ちなみに妻の町は篠崎小竹の娘。

この天徳寺の墓地には、
[先生]の碑銘の付いた墓が多く、
学者達が多く眠っているようです。
残念ながら時間がなくて網羅出来ずですが、
色々調べると面白いかもしれません。

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