つづき。
①/②/③/④/⑤/⑥
嘉永6年2月11日。晴。
桃谷の坂本鉉之助を訪問して、
砲術の教えを乞い、
梶木町の後藤春蔵(松陰)を訪問した後、
①舟に戻る。
三田尻の飯田邸に滞在時より、
風邪気味の為に食事をとって寝る。
※坂本鉉之助は大塩の乱鎮圧の功労者。
大塩勢の梅田源左衛門を射殺しています。
後藤春蔵は頼山陽門下。
ちなみに号は松陰と云いました。
松蔭は常安橋に碇泊した舟に泊りますが、
橋の南側には長州藩蔵屋敷がありました。
大阪府大阪市 長州藩大坂蔵屋敷跡
やはり後ろめたさがあったのでしょうか?
嘉永6年2月12日。晴。
森田謙蔵に会う為に大和五条を目指す。
高津宮に参拝し仁徳天皇陵の方角に拝礼。
四天王寺傍らの出こぼれ口より河内国へ。
大和川を渡って藤井寺、古市を経て春日。
そこから1里の②竹内村に宿泊。
※出こぼれ口というのがわかりませんが、
たぶん小さな路地的なものなのでしょう。
嘉永6年2月13日。
雨。午後から晴。
宿を発って今北、三在に至り③五条へ。
森田謙蔵を訪問。
彼は小幡五郎の師で号を節齋という。
五郎の事や論文を聞くなど、
夜半まで話し気分が良かった。
森田邸に宿泊。
※わざわざ大坂から会いに行ったのは、
小幡の師だったから。
小幡は一応死ぬつもりだったので、
松陰はその事を伝えにきたのでしょう。
2月11日~13日の行程。
嘉永6年2月14日。
節齋に従って富田林の仲村徳兵衛宅へ。
また増田久兵衛も同道。
五條を出て千窟を越えて②富田林へ。
※仲村家は岸和田庄屋中家と諍いを起こし、
その調停を節齋に依頼していたようです。
増田は徳兵衛の叔父で節齋と親密な関係。
節齋は当初より富田林に赴く予定で、
松陰もこれに同行。
その後は23日まで仲村家に滞在し、
中村家所蔵のお宝を拝見。
近畿諸藩の事、
将棋や囲碁の事などを聞いています。
嘉永6年2月23日。
晴。節齋に従って岸和田に至る。
藩校教習館の相馬一郎を訪ねて議論する。
※相馬一郎は岸和田藩儒。
松陰の宿泊先は塩屋平衛門宅とのこと。
嘉永6年2月24日。
晴。相馬が来る。
この日の夜に節齋に従って相馬を訪問。
劇談になって次の日の午前10時頃帰る。
嘉永6年2月25日。晴。
※流石に御前様に帰ったので、
そのまま寝たのでしょう。
以降は3月3日まで岸和田に滞在。
日記は途切れ途切れになっています。
2月14日~2月25日の行程。
つづく。
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