松陰の東北遊学①

①/////////

吉田松陰は嘉永4年、藩主毛利慶親参勤交代に随従し、
初めて江戸にやって来ます。
藩邸での役務を持たぬ留学生である松陰は、
安積艮斎山鹿素水佐久間象山などに入門し、
積極的に諸学を学ぼうとしました。

また、熊本藩より同じく江戸遊学に来ていた宮部鼎蔵と共に、
実際の江戸湾の海防状況を見学する旅にも出ています。
この時の松陰の日記は失われているようで、
詳細は判りませんが、無人の砲台弾が二つしかない砲台など、
海防を志す軍学者の松陰や宮部が愕然とする状況だったという。
幕府のお膝元である江戸でこんな状況では、
ロシアに近い東北はどうなっているのか?
松陰が宮部と共に東北遊学に出掛けようとしたのは、
そういった理由もあったようです。

松陰と宮部に盛岡藩脱藩の江帾五郎も参加し、
3人で東北遊学を計画して12月15日を出発の日に決め、
準備に取り掛かりました。
この12月15日は赤穂浪士吉良邸に討ち入った日で、
出発の日に最もふさわしい日と3人が考えたのですが、
その理由が同行する江帾五郎にあったようです。
江帾は兄江帾春庵を盛岡藩の政変で失っており、
この旅には兄の仇討ちの為であり、途中で別れる予定でした。
仇討ちへの出発には、吉良邸討入の吉日が相応しい。
3人はそう考えたのではないでしょうか?

しかし、問題が発生します。
松陰は遊学の許可願いを嘉永4年7月17日に提出し、
7月23日に承認されていますが、
12月に入って肝心の過書手形が発行できないとわかる。
過書手形の発行には藩主慶親の印が必要でしたが、
慶親は8月にに帰ってしまっており、
その発行には飛脚を萩に飛ばして得るより方法はなく、
最低でも2ヶ月以上は掛かります。
松陰は悩んだ挙句、友との約束を違えられぬと脱藩を決意し、
2人に「1日早く出るから水戸で落ち合おう」と手紙を出し、
一人東北遊学に出発しました。

嘉永4年12月14日。
曇り。巳の刻(午前10時頃)桜田藩邸を出発。
北上して千住宿に至り、右折して水戸街道へ。
※千住宿は江戸四宿のひとつで、松陰が進んだ水戸街道の他、
日光街道や奥州街道の初宿です。

綾瀬川の橋(水戸橋?)を渡り、
中川の渡しを越えて新宿に至り、
金町から松戸川(江戸川)を渡船に乗って松戸宿に入る。
※綾瀬川の橋はたぶん水戸橋の事で、この橋の名は、
水戸黄門がこの橋のたもとで妖怪を退治した事に由来します。

松戸川(江戸川)の渡船は演歌で有名な「矢切の渡し」。
松戸宿から本郷村に至り、本福寺に宿泊。


12月14日の行程。

※松戸宿到着時には既に日は落ちていましたが、
松陰は
追手を恐れて松戸宿には泊まらず、
そのまま街道を進んで本郷村まで歩き、
街道を逸れて200m程進んた本福寺に宿泊しました。
その際に
偽名(松野他三郎)を使っており、
脱藩初日の緊張感がうかがえます。

つづく。

①/////////

■関連記事■
吉田松陰2度目の江戸遊学①/////
 嘉永6年の江戸への行程。
松陰の九州遊学①////////
 嘉永3年の九州遊学の行程。
松陰の北浦巡視①/////
 嘉永2年の北浦巡視の行程。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。