嘉永5年3月21日。
①仙台で世話になった諸氏に挨拶して出立。
広瀬川を渡って名取川を越え、
②中田宿で宿泊。
嘉永5年3月22日。
宿を出て増田、③岩沼、槻木、④舟迫に至り、
刈田宮(刈田嶺神社)に向かう道で、
弥八(江幡五郎)と合流。⑤白石宿で宿泊。
※江幡は松陰らを仙台で探しますが、
留守であったので出発したと思い、
福島方面に向かいましたが、
諦めて戻る最中に遭遇したようです。
嘉永5年3月23日。
山中を歩いて二里。
五蔵(江幡五郎)が⑥戸澤まで見送り、
一緒に宿泊して明日別れることにする。
浄瑠璃を宿に呼んで、
忠臣蔵12回語らせて涙する。
※12回語らせたとすれば異常ですが、
忠臣蔵は全11段の話で、
12回は松陰の勘違いと思われますので、
その11段目を語らせたのでは?
嘉永5年3月24日。
宿に再び浄瑠璃を呼び、
忠臣蔵を8回語らせた後、
江幡五郎と別れ戸澤を出発。
渡瀬、関町を越えて⑦滑津に宿泊。
※またも忠臣蔵。しかも朝からです。
これも8回語らせたのではなく、
8段目ということでしょう。
嘉永5年3月25日。
宿を出て湯原、新宿、⑧高畠を経て、
米沢城下に宿泊。
翌日、米沢藩士高橋玄益を尋ねますが、
藩主が明日出立するので慌しく会えず。
※中央7丁目に吉田松陰旅宿の地碑が、
建てられています。
山形県米沢市 吉田松陰逗留地跡
3月21日~3月25日の行程。
嘉永5年3月27日。
辰時(午前8時頃)、藩主が出立。
①米沢を出て舟坂、②綱木、桧原を過ぎて、
③大潮宿に宿泊。
嘉永5年3月28日。
宿を出て熊倉、塩川を過ぎ、
⑤会津城下に至る。
志賀與三兵衛宅を訪問し、
井深蔵人、黒河内伝五郎、高津平蔵、
一関藩士佐世岱太郎に会う。
七日町の宿に宿泊。
※会津はこの旅2度目の訪問。
2度目に会った人々との再会です。
嘉永5年3月29日。
七日町を出て高津平蔵に挨拶をした後、
湯川橋を渡り、黒川、本郷に至る。
⑥大内宿を過ぎて⑦田島宿に宿泊。
3月27日~3月29日の行程。
嘉永5年3月30日。
①米沢を出て糸沢、
②山王峠(三王嶺)を越え、
③高原宿に宿泊。
嘉永5年4月1日。
絹川(鬼怒川)を下りて藤原、
④高徳を過ぎ、
⑤鉢石町に宿泊。
※日光東照宮に参拝。
その豪華さを絶賛しています。
嘉永5年4月2日。
朝早く出て今市に至る。
足利学校を目指して、
⑥板橋、合戦場を経て、
⑦栃木宿で宿泊。
嘉永5年4月3日。
宿を出て、富田に至り⑧足利宿へ。
足利学校を見学した後、
足利宿に宿泊。
3月30日~4月3日の行程。
嘉永5年4月4日。
①足利宿を出て②猿田に至る。
渡覚川(渡良瀬川)を渡り、
梁田、③木戸、高根を経て、
④館林城下に至る。
館林藩士三科文次郎に訪問しようとしたが、
大手門より中は入れない。
城下を出て羽附、岩田を越えて⑤板倉へ。
小川を舟で越えて⑥高島天神の傍を通り、
刀根川(利根川)を舟で下る。
関宿で舟を乗り換え江戸橋へ。舟中泊。
※松陰は過書手形を持っていないので、
城内の三科宅へは入れなかったようです。
当時の館林藩主秋元志朝は、
徳山藩8代藩主毛利広鎮の八男。
長州藩とは親戚の間柄でしたので、
過書手形を持ってさえいれば、
歓迎はしてもらえたでしょう。
4月4日の行程。
嘉永5年4月5日。
巳時(午前10時頃)、江戸橋に到着。
宮部鼎蔵と別れ鳥山新三郎宅へ。
嘉永5年4月10日に藩邸に戻る。
これにて松陰の東北遊学は終了。
この旅は東北の全県に関わっている為か、
詳しい全工程を記載した本が中々無い。
仕方なく東北遊日記を自分なりに解読し、
行程をメインに松陰の旅路を辿っています。
そんなわけで誤読もあるかもですが、
そこはご了承下さい。
出来れば指摘も頂ければ助かります。
■関連記事■
・吉田松陰2度目の江戸遊学①
嘉永6年の江戸への行程。
・吉田松陰の九州遊学①
嘉永3年の九州遊学の行程。
・吉田松陰の北浦巡視①
嘉永2年の北浦巡視の行程。
すばらしい
ありがとうございます!