①/②/③/④/⑤/⑥
嘉永4年12月。
吉田松陰は藩の許可なく東北に遊学し、
吉田松陰の東北遊学①
脱藩の罪で士籍を剥奪されていますが、
藩主毛利慶親は松陰の才能を憐れみ、
十年間の諸国遊学の許可を出します。
長州藩には育(はぐくみ)という制度があり、
藩士として振る舞う事が許されました。
松陰も父杉百合之助の育となっており、
未だ長州藩士の扱いを受けると共に、
[ほどぼり]をさます事ができます。
そういうわけで、
松陰は嘉永6年1月に遊学に旅立ちます。
嘉永6年1月26日。
雨。早朝に①萩を出発。
兄伯教(杉民治)、佐々木小亀、
高須又左衛門、玉木彦助、
赤川淡水(佐久間佐兵衛)が見送ってくれた。
天神社に詣で大谷畷で皆と別れたが、
久保清太郎が②三田尻まで付いてくる。
山口県防府市 三田尻湊
警固町の飯田行蔵邸に宿泊。
※1月27~30日まで飯田邸に宿泊し、
30日に③富海へ移動して宿泊。
山口県防府市 富海宿と船蔵
三田尻で沢山の人物を訪問していますが、
旅の行程が目的なので割愛します。
嘉永6年2月1日。
晴。乗舟。
舟には8名が乗船。一人は芸商で、
一人は船木の櫛商で昨夜は同じ宿であった。
他の6名は須佐の百姓、旅行中の上国人、
梅二郎、佐介、残り4名は皆老婆であった。
その他に舟子が3名。
午前10時頃に出航。
風が強く④大津島のチカワに寄港して宿泊。
※僕の誤読か人数の辻褄が合わない。
4日も待ったのに荒海で嘔吐者が多数。
2里しか進まず大津島で宿泊する羽目に。
1月26日~2月1日の行程。
嘉永6年2月2日。
晴。明け方に①大津島を出航。
風は順風であったがその後逆風で逆潮。
②室津に停泊。
その距離12~3里。上陸して散歩。
山上に砲台があった。
山口県熊毛郡 東山台場
室津を出て③小松に至る。
櫛商は上陸。ここから伊予行の便が出ている。
※小松は周防大島の西端。
嘉永6年2月3日。
晴。明け方に出航。
四里進んで④新湊に至る。芸商が上陸。
自分もまた上陸して岩国で錦帯橋を観る。
新湊から五里進んで⑤宮島へ。
広島県廿日市市 厳島神社
午後10時頃に到着。
嘉永6年2月4日。
晴。早起きして上島に参拝。
出航して音門の屋形石まで5里。
風が止み潮は逆。午後4時頃まで錨を下す。
音門の⑥迫戸に至る。
宮島から迫戸の間は島が無数にあったが、
草山ばかり樹木は生えてない。
2月2日~2月4日の行程。
嘉永6年2月5日。
雨。午後に止み、午後2時頃に錨を上げる。
猫瀬まではとても荒れていて、
しばらく停泊して晩飯。
流れが緩み風が出てきたので、
帆を張り②ノウジに至る。
※猫瀬は女猫島。
ノウジはよくわかりませんが、
大三島の地名と思われます。
嘉永6年2月6日。
薄暗い未明に出発。風はすこぶる強い。
左手に田島を見て船長曰く
[田島は捕鯨が雇われる]という。
5つの島を越えて午後4時頃に、
多度津に到着。
③多度津は丸亀藩の支藩で、
京極壱岐守1万石の陣屋。
嘉永6年2月7日。
晴。皆早起きして琴平の金毘羅宮に参る。
香川県仲多度郡 金刀比羅宮①
途中の善通寺は弘法大師の誕生地。
※松陰は参拝者が崇徳天皇陵の存在を、
知らないということを嘆いています。
2月5日~2月7日の行程。
嘉永6年2月8日。
晴。夜明け頃に①多度津を出航。
追い風で平波。
備前の京上藹島に至る。
暫く休んでまた錨を上げて帆を張って進む。
牛窓を過ぎて大田婦に至り②室津に到着。
この日の風はあまり強くない。
あの帆この櫓、見渡す限り天晴な風景。
※この日は穏やかな航海だったようで、
松陰の気分も良かったようです。
嘉永6年2月9日。
晴。夜明け頃に室津を出航し、
夜10時頃に③兵庫に到着。
嘉永6年2月10日。
晴。夜明け頃に兵庫を出航。
昼頃に安治河口に到着。
④土佐堀を上って常安橋の下に錨を寄せる。
この日は金毘羅祭りで、
高松藩邸内の祠に多くの人が詣ていた。
2月8日~2月10日の行程。
つづく。
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