新湊は岩国領(岩国藩)の海の玄関だった港。
初代吉川広家により今津川河口が開発され、
物揚場が築造されたのに始まり、
後に10代吉川経礼が麻里布湊を開発。
これが新湊と呼ばれるようになります。
北前船等が多く入港していたようで、
港会所が設置されて遊郭も置かれており、
江戸時代後期に賑わいを魅せていました。
「岩国港」。
現在の新湊は岩国港となっています。
吉田松陰は嘉永6年2月3日に、
2度目の江戸遊学の船旅で新湊に入港。
上陸して錦帯橋見物を行った後、
戻って来て船で宮島に向いました。
※新港から錦帯橋まで6.5km。
まあまあの距離ながら日帰りしてます。
第一次長州征伐の交渉においては、
吉川家が幕府と長州藩を周旋しますが、
新湊がその交渉舞台となります。
慶応元年11月4日、
西郷隆盛は新湊まで小舟でやって来て、
岩国領主吉川経幹と会談しました。
また慶応元年12月14日の夜、
近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎の3人が、
海路で広島から新湊に入港。
翌15日に3人は新湊の役人西村五郎左衛門に、
岩国への入国と会見を要請しました。
岩国側は取り合えず3人を庄屋宅に泊め、
翌16日に正式に会見を拒否。
近藤らは仕方なく広島に帰っています。
この他にも何度も交渉の場となっていますが、
基本的に岩国側からすれば新湊は門前で、
ここで足止めして領内には入れず、
あくまで門前にての交渉の体だったようです。
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