慶応3年(1867)年12月18日。
新選組は伏見奉行所に転陣しており、
局長近藤勇は軍議で二条城へ赴いた後、
護衛約20名と帰路につきましたが、
近藤は[墨染通]辺りで狙撃され、
左肩に銃弾を受けました。
予期せぬ銃撃を受けた近藤は、
馬を走らせて伏見奉行所に逃げ込み、
大事には至りませんでしたが、
治療の為に大坂… 続きを読む
京都府京都市 近藤勇遭難の地
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慶応3年(1867)年12月18日。
新選組は伏見奉行所に転陣しており、
局長近藤勇は軍議で二条城へ赴いた後、
護衛約20名と帰路につきましたが、
近藤は[墨染通]辺りで狙撃され、
左肩に銃弾を受けました。
予期せぬ銃撃を受けた近藤は、
馬を走らせて伏見奉行所に逃げ込み、
大事には至りませんでしたが、
治療の為に大坂… 続きを読む
三条大橋は鴨川に架かる三条通りの橋で、
東海道の終点となっていました。
「三条大橋」。
最初に架けられたのは室町時代とされ、
後に豊臣秀吉によって石柱の橋に改修。
江戸時代… 続きを読む
板橋宿は中山道の最初の宿場町で、
江戸四宿のひとつとして栄え、
※他の三宿は東海道の品川宿、
甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住宿。
旅人の宿泊の他に… 続きを読む
金地院には七戸藩南部家の墓もありますが、
東京大空襲で破壊されてしまった為か、
歴代全ては見つかりませんでした。
七戸藩南部家は麹町南部家とも呼ばれ、
元々は5000石の旗本寄合席でしたが、
盛岡藩より分地されて1万1000石となり、
これが認められて諸侯に列しています。
基本的には宗家の蔵米支給だったようで、
江戸に常駐する… 続きを読む
米沢市の高国寺に近藤勇の墓があります。
近藤は新選組局長として京で活躍しますが、
鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰還。
甲陽鎮撫を命じられて甲府に向かい、
甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗北し、
下総国の… 続きを読む
伊東甲子太郎は新選組の参謀でしたが、
思想の違いで脱退を決意するに至ります。
脱退は局中法度で切腹となってしまう為、
新組織立ち上げによる分離のカタチをとり、
御陵衛士を立ち上げました。
分離には局長近藤勇… 続きを読む
新選組の名を轟かせた池田屋事件。
現場の池田屋跡は居酒屋となっています。
「池田屋跡(旅籠茶屋池田屋 はなの舞)」。
新選組をコンセプトとした居酒屋で、
実に上手な商売であると思います。
「池田屋騒動之址」。
池田屋の店先あります。
元治元年5月下旬。
新選組に捕らえられた枡屋喜右衛門… 続きを読む