板橋宿は中山道の最初の宿場町で、
江戸四宿のひとつとして栄え、
※他の三宿は東海道の品川宿、
甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住宿。
旅人の宿泊の他に飯盛女目当の客で賑わい、
非常に繁栄していたようです。
板橋宿は隣接する3つの宿場の総称で、
江戸側から平尾宿、中宿、上宿と連なり、
脇本陣が平尾宿と中宿に設けられ、
中央の仲宿に本陣が置かれました。
板橋区板橋周辺。緑の線が中山道で、
色でぼかした3つの場所は、
下から板橋平尾宿、中宿、上宿です。
「板橋宿入口」。
日本橋より中山道を進み板橋宿に至ります。
ここは川越街道との追分になっており、
板橋宿が起点となっていました。
「板橋平尾宿跡」。
江戸寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ね、
江戸っ子の遊び場にもなっていたという。
脇道に入って脇本陣跡へ。
「板橋宿平尾町脇本陣跡」。
板橋平尾宿脇本陣の豊田市右衛門家跡。
豊田家は問屋を営んだ平尾の名主で、
苗字帯刀を許されていたという。
甲州勝沼の戦いで敗れた近藤勇は、
流山で捕縛されて板橋宿に連行されますが、
仲宿の板橋本陣で正体を見破られた後、
※大久保大和と名乗っていた。
この豊田家に移されて幽閉されており、
足枷をされて厳重に見張られていました。
近藤は豊田家の娘とみを可愛がったようで、
膝に乗せて子守歌を歌ったと伝わります。
街道に戻って街道筋を進む。
「仲宿」。
王子新道を越えると板橋中宿。
板橋宿の中心であった仲宿には、
問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、
番屋等が置かれ、
唯一本陣が指定されていました。
「遍照寺」。
現在の遍照寺は真言宗の寺院ですが、
宿場時代は天台宗の寺院であったという。
境内は馬繋ぎ場として利用され、
伝馬や立馬、継立馬が繋がれていましたが、
廃仏毀釈で廃寺となっており、
後に真言宗寺院として再建されてます。
廃寺後も境内で馬市が開かれていたようで、
明治40年頃まで続いたとのこと。
「板橋仲町宿跡」。
仲町は現在も賑わっているようで、
人通りもある程度あるようで店舗も多い。
明治以降には宿場町としては廃れた為、
遊郭街として生まれ変わったようですが、
勿論その面影も見当たりません。
「板橋宿本陣跡」。
板橋宿の本陣を務めた飯田新左衛門家跡。
本陣は当初飯田本家等数家が務めましたが、
宝永元年(1704)に飯田本家より別家を興し、
本陣と問屋役を引き継いだようです。
北に進んで小さな十字路を西へ。
「板橋仲宿脇本陣飯田宇兵衛家跡」。
脇本陣を務めた飯田宇兵衛家の跡。
宇兵衛家は本陣飯田新左衛門家の本家筋で、
元々は豊臣家に仕えていたと伝わります。
江戸時代初期には本陣を務めていますが、
後に新左衛門家が興されると、
本陣と問屋役を譲っていますが、
名主として宿駅の管理運営にあたました。
文久3年の和宮降嫁の際には、
新左衛門家に代わって本陣を務めますが、
これは当時の新左衛門家の当主が不在で、
幕末には宇左衛門が本陣を務めた為。
慶応4年には東山道先鋒総督本営にもなり、
和宮が侵攻中止を嘆願する書状を、
ここに宿陣する総督岩倉具定に送り、
暫くの間駐屯することになりました。
このように和宮と縁のある家でしたが、
下向途中の和宮が屋敷の蔵で首を吊り、
替玉が用意されて将軍に嫁いだという、
トンデモ説も存在しています。
「板橋」。
地名の由来となった板製の橋。
勿論現在は板製ではありませんが、
それっぽい雰囲気で造られています。
板橋という単純な名前なのですが、
意外に初出は鎌倉時代のようで、
古くからの地名でした。
橋を越えると上宿。
「板橋上宿跡」。
上宿は緩やかな上り坂となっており、
木賃宿や馬喰宿が軒を連ねていたようで、
庶民の旅人の宿場だったようです。
「中山道板橋宿」碑。
板橋本町交番脇にある跡碑。
「縁切り榎」。
板橋の名所とされたエノキで、
縁切りのご利益があるとされます。
このあたりにある旗本の屋敷があって、
垣根にエノキとケヤキが生えていました。
周辺の人々はこれを[えのきつき]と呼び、
※ケヤキは槻(ツキ)の旧名があります。
それが訛って[えんのつき]となり、
後にケヤキが枯れてエノキだけが残り、
いつしか[縁切り榎]と呼ばれました。
庶民はこれを悪縁を切ると敬い、
離縁が許されない女性などが、
樹皮を煎じて離縁したい相手に飲ませ、
縁切りを祈ったという。
和宮降嫁の際には迂回路を通ったようで、
嫁入り行列には避けられていたようです。
■中山道の宿場町
■関連記事■
・東京都中央区 日本橋
中山道及びその他の街道の起点。
・東京都品川区 品川宿跡
東海道の最初の宿場町。
・東京都北区 近藤勇墓所
板橋駅前にある近藤勇の墓。