日本橋は慶長8年(1603)に架けられた橋で、
その初代は木造の太鼓橋でした。
この年に江戸幕府を開いた徳川家康は、
大名に対するの政治支配力を強める為に、
街道の制度改革と整備に乗りだします。
各所に宿場や伝馬の設置を義務付け、
一里塚や松並木の植樹、路面の整備を命じ、
江戸への主要街道の五街道を順次整備。
その起点として日本橋が定められました。
中央区日本橋周辺。
水色の線が東海道、赤の線が中山道、
紫と黒の線が奥州街道及び日光街道、
青い線が甲州街道の街道筋。
「歌川広重 東海道五拾三次 日本橋」。
この日本橋は初めて架けられた後から、
明暦3年(1657)、天和2年(1682)、
元禄11年(1698)、正徳元年(1711)、
享保元年(1716)、安永元年(1772)、
文化3年(1806)、文政12年(1829)、
弘化3年(1846)、安政5年(1858)と、
火事の多かった江戸において10度も焼失。
その度に架け直させています。
これらは全て木造で造られたもので、
最後に木造で架け替えられたは明治5年。
その後の明治44年に石造二連アーチ橋となり、
現在の日本橋に至っていますが、
修復で架け替えが行われたのも含めると、
今の日本橋は20代目であるという。
架け替えられた当時の日本橋。
この日本橋を中心とする江戸城の西側には、
町人地に定められていたようで、
現在の中央区辺りに町人住居が集中し、
商店や庶民の長屋が立ち並んでいました。
その範囲は巨大な江戸の町において、
約20%程度であったようですが、
享保年間の江戸の人口は約100万人で、
町人と武士の割合が1:1とされる為、
20%の土地に50万人が居住していたようで、
かなりの人口密度であったようです。
※ちなみに現在の中央区の人口は約14万人。
現在の日本橋(wikipediaの画像を転用)。
日本橋の上に首都高が通っており、
その影で薄暗くなっています。
ですがこの首都高を地下に移して、
再び青空の下に戻す計画もあるという。
いつになるかはわかりませんが、
是非ともお願いしたいものですね。
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