東京都千代田区 江戸城西ノ丸下/皇居外苑

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東京へ出張。
北九州空港より始発の飛行機に乗ります。

夜も明けやらぬうちから出発し、
夜明けは飛行機の中で迎えました。
フライトは1時間ちょっと。
便利なものですね。

この日の前週、東京は4年ぶりの大雪で、
まだ雪が残っていましたが天気は悪くない。
何度も東京駅には来た事はあるのですが、
乗り換えするだけで外に出たことがなく、
今回初めて外から東京駅を眺めてみました。


2012年に復原工事が完成した駅舎
TVでは何度も観ておりますが、
おのぼりさんの僕は肉眼で見るのは初です。
近代的な高層駅舎化せずに、
保全というかたちを取ったのは素晴らしい。


正二位勲一等子爵井上勝君像」。
丸の内駅前広場の鉄道の父井上勝の銅像。
長州五傑のひとりで、
他の3人が次々と途中帰国する中、
山尾庸三と共に明治元年まで修学しました。
帰国後は日本の鉄道事業の推進に貢献し、
鉄道庁長官に就任して各路線を開通。
明治43年に鉄道院顧問として、
英国を訪問した際に客死しています。


和田倉橋和田倉門」。
和田とはの古語のようで、
和田倉は海の蔵(倉)という意味。
辺りに和田倉が建てられていたことから、
この名称で呼ばれたとのこと。
現在は木造の橋で復元されていますが、
旧江戸城内で木造の橋なのは、
この和田倉橋と平川橋だけ。

和田倉噴水公園の敷地は、
会津松平家上屋敷があった場所。
松平容保京都守護職を要請された際、
この上屋敷に滞在していました。
跡地は維新後に兵部省が置かれましたが、
明治5年に失火で焼失。
その火は西北の風に煽られて、
延火して周辺を焼き尽くします。
これは会津の怨念だと噂されてました。

和田倉噴水公園より内堀通りへ。

桜田巽櫓」。
桔梗堀のむこうに見える二重櫓。
江戸城現存櫓のひとつです。
関東大震災によって一度損壊しましたが、
解体して復元されました。


皇居前広場」。
広大な広場で砂利が敷き詰められた場所と、
芝生に黒松が植えられた場所があります。
大名屋敷が立ち並んでいた場所でしたが、
維新後に全て撤去されました。


坂下門」。
宮内庁職員の通用門となっていますが、
ここは水戸浪士らが老中安藤信正を襲い、
負傷させた坂下門外の変の現場。
桜田門外の変井伊直弼が倒れた後、
幕政を主導した老中久世広周と安藤は、
井伊の路線を継承して公武合体を推進。
これに水戸などの尊攘志士らが憤慨して、
安藤の暗殺を計画しました。
しかし負傷はさせたものの暗殺は失敗。
襲撃した水戸浪士6人は闘死しています。
暗殺は失敗しますが安藤は老中を罷免。
隠居蟄居となり2万石を減封されました。

坂下門より南へ歩く。

皇居正門」。
江戸城時代の西ノ丸大手門だった門は、
皇居正門となっています。


皇居正門石橋」。
江戸城時代は土橋だったようで、
石橋になったのは明治20年の事。
遠くに観える櫓が伏見櫓で、
皇居のシンボル的建物となっています。
石橋の先に鉄製の正門鉄橋がありますが、
石橋に重なって見えませんね。
この奥は天皇陛下がおわす皇居。

さらに南へ進み桜田門へ。

桜田門渡櫓」。
桜田門は内桜田門外桜田門の2つあって、
外桜田門が桜田門と呼ばれました。
対して内桜田門は桔梗門とも呼ばれ、
桜田巽櫓の西側にあります。


桜田門高麗門」。
外桜田門も渡櫓門と高麗門の2重門。
この門の手前で桜田門外の変が発生。
超有名なこの事件ですが、
それを示す石碑などはありません。
何故???


警視庁」。
桜田門の正面は警視庁の本部。
政権を揺るがすテロ事件のあった現場が、
現在の警視庁の本部なわけです。
テロ事件といえば桜田門外の変以外にも、
桜田門でテロがありました。
桜田門事件という昭和天皇暗殺未遂事件で、
これも重要な事件ですが、
警視庁にも威信があるでしょうから、
テロにまつわる碑は建てられないのかな?

桜田門より南東へ進み、
内堀通りより再び外苑へ。

楠木正成騎馬像」。
楠木正成南北朝時代の人物ですが、
忠臣として尊攘運動の精神的支柱でした。
住友家別子銅山開坑二百年記念事業で、
東京美術学校に製作を依頼し、
宮内庁に献納したもの。

さて、これより北へ進んで、
本丸二ノ丸のあった皇居東御苑へ。
次回へ続きます。

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