旧江戸城の本丸及び二ノ丸は、
現在の皇居東御苑。
この皇居東御苑は皇居附属の庭園で、
苑内は一般公開されています。
「大手門」。
皇居東御苑にはこの大手門の他、
平川門・北桔橋門からも入苑できます。
入苑は午前9:00からで、
数人の外国人観光客が待っていました。
日本人は僕だけのようですね。
開苑すると簡単な手荷物検査が行われ、
番号の書いた札を渡され、
退苑時にその札を返すという仕組み。
大手門の高麗門・渡櫓門をくぐり、
衛所で札を渡されて進み、
三の丸尚蔵館を過ぎると、
巨大な門跡の石垣が現れます。
「大手三之門跡」。
大手門よりここまでが三ノ丸。
ここを過ぎれば二ノ丸です。
尾張、紀州、水戸の徳川家以外の大名は、
駕籠を降りなければなりませんでした。
大名に追従する多くの家臣らも、
この手前(下馬先)で待つ事になるのですが、
他の家臣との情報交換も行われたようで、
下馬評という言葉が生まれたとされます。
「同心番所」。
大手三之門を警護する同心や与力の詰所。
二ノ丸に入ると左手にある長屋風の建物。
「百人番所」。
ちょうど逆光で正面から写せませんでした。
読んで字の如く百人の同心が詰める番所で、
甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の、
四組各100人の鉄砲隊が、
交代で詰めていた場所です。
「中之門跡」。
百人番所の正面にある本丸の大手門。
「大番所」。
江戸城本丸へ行くための最後の番所で、
警備上最後のチェックポイントとなる場所。
ここで許可を貰わないと、
本丸へは入れませんでした。
大番所を過ぎて坂を上り中雀門跡を通ると、
そこからが本丸域です。
「富士見櫓」。
本丸の東南隅に建つ三重櫓。
江戸城の天守は焼失して以降、
再建はされていませんので、
江戸城の天守の役割を果たしました。
「本丸大芝生」。
本丸御殿の跡地で、
江戸時代の政治の中心となっていた場所。
表、中奥、大奥の壮大豪華な殿舎が、
所せましと立ち並んでいました。
江戸時代を通して四度の火災で焼失し、
その度に再建されていたのですが、
文久3年の火災での焼失後は再建されず、
その機能を西ノ丸御殿に移し、
以降は西ノ丸御殿が幕政の中心となります。
皇居の中心が本丸ではなく、
旧西ノ丸にあるのはその経緯から。
「松之大廊下跡」。
松之大廊下は大広間から白書院に至る廊下。
全長約50mもあったという。
その襖絵に松並木が描かれいたようです。
浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた場所。
「天守閣跡」。
天守は明暦の大火(振袖火事)で焼失。
以降は再建されませんでしたが、
天守台(石垣)のみが残されました。
天守は58mの五層六階であったようで、
この巨大な江戸城において、
本丸にまで火が達するとは、
想像出来ない程の大火だったのでしょう。
天守閣跡を過ぎて北桔橋門より退苑。
衛所で札を返します。
「北桔橋門」。
大奥から外部に直接通じる門であった為、
濠は深く石垣は最も高く積まれていました。
これにて皇居東御苑訪問は終了。
出てすぐ東側にある乾門へ。
「乾門」。
明治期に建てられた京風の門。
皇居の乾の方角にあるのが名の由来です。
皇居東御苑は他に二ノ丸庭園がありますが、
時間と体力の関係から行きませんでした。
次は御三卿の屋敷跡に行ってみます。
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