山陽小野田市 蔵田幾之進墓所

長州藩攘夷期日の文久3年5月10日、
米国商船ペンブローク号を砲撃し、
関門海峡での攘夷攻撃を開始しました。
5月23日には仏国通報艦キャンシャン号を、
同26日には蘭国軍艦メデューサ号を砲撃。
これらの攻撃に対する報復として、
文久3年6月1日に米軍艦ワイオミング号は、
関門海峡へ赴いて長州藩の軍艦を攻撃し、
壬戌丸庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破させ、
陸上砲台も砲撃して被害を与えます。
更に同5日には仏艦セミラミス号と、
タンクレード号も報復攻撃を行い、
前田砲台及び壇ノ浦砲台を砲撃して、
陸戦隊を上陸させて砲台を破壊。
米仏の攻撃で長州藩は敗北し、
欧米の軍事力を思い知らされました。

この状況に焦った長州藩は、
高杉晋作の発案で奇兵隊を発足させ、
身分を問わず有志を集めました。
こうして結成された奇兵隊でしたが、
藩の正規部隊である撰鋒隊は、
烏合の衆」であると奇兵隊を蔑み、
奇兵隊も撰鋒隊を「腰抜け」と罵り、
両隊には軋轢が生じていたとされます。
そんな中で発生した教法寺事件は、
世子毛利定広砲台視察に端を発し、
両隊は世子が担当する砲台を視察する際、
演習等を披露する予定でしたが、
世子は最初に奇兵隊の砲台を視察し、
その時間が押してしまった為に、
撰鋒隊の砲台視察は延期。
この件を無念に思った撰鋒隊士は、
視察を仕切った奇兵隊の宮城彦輔が、
視察させないように仕組んだと考え、
宮城襲撃をほのめかしました。
これを聞いた奇兵隊は教法寺に赴き、
※教法寺は撰鋒隊の屯所となっていた。
境内に押し入って戦を挑みますが、
撰鋒隊士らはこれに驚いて逃走。
当時病気で寝込んでいた蔵田幾之進が、
同隊士らが逃走する中で取り残され、
奇兵隊士に惨殺されてしまいます。

この事件の被害者蔵田幾之進の墓が、
奥の浴という場所にあります

加茂神社」。
奥の浴の山中にある加茂神社
康保2年(965)に厚狭村梶浦の海中で、
毎夜光り輝く現象があったようで、
これを拾い上げると光る石でした。
これは霊石に間違いないと浦に祀りますが、
やがて村人に霊夢によるお告げがあり、
先ず鴨の庄へ、次に松ヶ瀬朝鮮山へ、
更に随光観音寺浄地へ、
最後にこの奥の浴に移されたという。
その後は幾度も社殿を再建しながら、
村人に祀られていったようで、
現在の本殿は享保元年(1716)の建立、
拝殿は明治31年(1898)の建立。
山奥の神社ではありますが、
地域で大切にされているようです。

この加茂神社裏手の山に、
蔵田郁之進の墓があるらしい。

蔵田幾之進墓(たぶん)」。
裏山を尾根伝いに登っていくと発見。
周辺を小一時間探しましたが、
それらしいものはこれだけでした。
蔵田幾之進信勝は大組士259石で、
厚狭郡奥の浴周辺を所領。
家伝の居合術柔術長刀に優れ、
その師範家を勤めていた他に、
砲術にも長けていたという。
文久3年7月に撰鋒隊に選出され、
赤間関教法寺に宿営しますが、
世子視察の日は病気で寝込んでおり、
奇兵隊とのいざこざには参加しておらず、
いきなり襲ってきた奇兵隊士に襲われ、
病床で刀を抜いて応戦しますが、
重傷を負わされてしまいます。
戻って来た撰鋒隊士の手当を受けますが、
その甲斐なく同日に死亡したようで、
34歳の若さであったという。
幾之進の遺骨は荼毘に付された後に、
自領の奥の浴に送られたとのこと。

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