宮城彦助は長州藩大組士。
和歌を得意とする文人として知られて、
文久3年に中山忠光が長州に赴いたため、
宮城はこの公卿の随従を命じられます。
文人の才を買われたのでしょう。
しかしこの中山忠光。
ただの公卿ではありませんでした。
若く狂信的な攘夷論者で、
雅な公卿ではなかったのです。
気に入らないからと失踪するわ。
真木和泉救出に久留米に行っちゃうわ。
公武合体派の暗殺指令を出すわ。
絶食するわ、太刀を振り回すわ、
大変な公卿様だったのです。
宮城が忠光随従している際に、
公武合体論者を暗殺したようですが、
忠光が指示したとみて間違いないでしょう。
後に天誅組の大将になるべく上京すると、
宮城は忠光の随従役を解かれています。
やれやれですね・・・・。
仏国軍艦が報復攻撃を仕掛け、
前田砲台を破壊した際に、
宮城は前田砲台を守っていました。
仏国軍艦の攻撃で前田砲台が壊滅した為に、
援軍の要請を本営に依頼。
それを受けて先鋒隊が救援に向かいますが、
御裳川あたりで仏国軍艦に砲撃され、
驚いた先鋒隊は慌てて退却。
宮城は先鋒隊に「卑怯者!」と叫びます。
この件を先鋒隊は根に持っていました。
その直後に高杉晋作が奇兵隊を設立。
宮城も早速入隊しています。
先鋒隊の再編成も晋作に命じられ、
3百名の先鋒隊は精鋭百名を残し、
萩に帰されました。
先鋒隊は壇ノ浦砲台を、
奇兵隊は前田砲台を持ち場として、
それぞれが訓練に励ましたが、
2隊の間に軋轢が生じてくるわけです。
先鋒隊は「農民風情に何ができる」と罵り、
奇兵隊は「腰抜け武士」とあざ笑う。
特に大組士ながら奇兵隊に入隊した宮城を、
先鋒隊は憎悪します。
そんな中で世子毛利定広が、
両隊の訓練を視察。
奇兵隊の稽古を視察した後、
先鋒隊の視察する段取りが組まれますが、
日が暮れた為に先鋒隊の視察は延期。
いいところを見せるはずだった先鋒隊は、
延期になってしまったのは、
宮城の策略によるものだと推測します。
もちろんそんな事は憶測で、
全く証拠があるわけではないのですが、
邪推は尾ひれが付いて、
先鋒隊士の多くがそう信じ込みました。
視察延期が決まった先鋒隊には、
慰労の酒が振舞われ、
その酔いも手伝ってか宮城を襲おうと計画。
しかし宮城も大組士ですので、
先鋒隊の中にも知り合いがおり、
宮城にその事が伝えられました。
これを聞いた宮城は、
晋作に相談して善処を依頼します。
晋作は赤禰武人と碁を打っていましたが、
これを聞いて宮城と共に教法寺へ。
※先鋒隊の宿舎となっていた。
赤禰は奇兵隊宿舎に知らせに向かう。
※晋作は両方の責任者でしたが、
赤禰は奇兵隊の幹部だったので、
受けて立つ気だったようです。
教法寺にある先鋒隊宿舎に来た晋作は、
先鋒隊士らを説得しようとしますが、
全く聞く耳を持ちません。
それどころか銃を打ってきたので、
これは危ないと退散。
そこへ奇兵隊が武器を持って押し寄せます。
先鋒隊士らはその様子を見て素早く退散。
高熱で寝込んでいた蔵田幾之進が残され、
奇兵隊士に惨殺されてしまいました。
奇兵隊が阿弥陀寺に引き上げた後、
先鋒隊が教法寺に戻ってみると、
蔵田の惨死体を発見。
報復に奇兵隊用人奈良屋源兵衛を拉致し、
長時間冷水に浸ける拷問を行い、
その後に裸で門外に放り出します。
源兵衛は近くの商人に救助されるも、
高熱を発して死亡。
この事態を重く見た藩政府は、
当事者である宮城に切腹を命じる。
切腹は教法寺にて行われましたが、
事件は先鋒隊の邪推が原因であり、
責任を負っての切腹であれば、
奇兵隊宿舎で行えは良いものを、
先鋒隊に見守られながらの切腹とは、
あまりにも残酷な処置でした。
介錯は後の奇兵隊総督河上弥市。
晋作もその最期を見届けました。
文人であった彦助でしたが、
血なまぐさい事件の当事者となり、
悲劇的な最期を迎えることとなります。
晋作は事件の待罪書を藩に提出。
遺書なども準備している事から、
切腹を覚悟していたと思われます。
奇兵隊は秋穂に転陣させられ、
先鋒隊から離されました。
惨殺された蔵田幾之進の遺児千弥は、
仇討の嘆願書を提出しますが、
この仇討は受理されず、
十両の香花料と訓戒状が与えられる。
その後も何度か仇討を願い出ますが、
その度に拒否されました。
宮城の遺児宮城正太郎は、
旧禄の2/3を給されて家督を相続。
奇兵隊と先鋒隊との遺恨は、
元治の内乱にて決着する事となるのでした。
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