ブログで何度も取り上げている中山忠光。
このハチャメチャ公卿の前半生について。
忠光は羽林家中山家の当主中山忠能の五男。
長男中山忠愛の養子となっていますが、
これは継嗣に選ばれたというよりも、
御方料という扶養手当のようなものを、
貰うためだったようです。
中山家には[不吉の間]と呼ばれる部屋があり、
そこで起居すると凶事にあうと伝えられ、
誰もその部屋には近づかなかったのですが、
忠光は意に介さずそこで寝起きしていました。
母の愛子(平戸藩主松浦清の娘)が心配して、
祈祷を頼んで凶事を払おうとしますが、
忠光はこれを断っています。
※最終的に忠光は凶事にあうわけで、
言い伝えは当たっていた事になります。
姉慶子が孝明天皇の御手付きにより妊娠し、
実家の中山家で祐宮を出産。
5歳まで中山家で育てられていた為に、
忠光は幼き祐宮を可愛がっています。
また祐宮が御所へ移った後も、
忠光は侍従として宮中に出仕しており、
そこでも遊び相手になっていました。
祐宮とはもちろん後の明治天皇の事で、
忠光は明治天皇にとっては、
遊んでくれたおにいちゃんであったようです。
父忠能は攘夷派で廷臣八十八卿列参事件では、
日米修好通商条約締結に反対しています。
尊攘志士が来訪すると彼らの意見をよく聞き、
時には酒食を持ってもてなす事もあったとされ、
忠光も傍らに座っていたようで、
その父の影響を色濃く受けました。
また中山家家臣であった田中河内介も、
忠光の思想に影響を与えています。
彼も祐宮の世話をしていたようで、
明治維新後に明治天皇は、
「田中河内介はいかがしたのか?」と尋ねられ、
薩摩藩に殺されたと聞いて嘆いたという。
忠光ら中山家の子息教育を行ったあと、
中山家を辞して浪士となりますが、
寺田屋の薩摩藩士粛正事件に遭遇し、
薩摩藩によって船上で惨殺されています。
※忠光にまつわる怪談が残っていますが、
田中にも怪談(記事はこちら)が残されます。
そして、やはり中山邸に訪れる志士達の話も、
忠光の思想形成にとって重要な要素でした。
長州藩の久坂玄瑞と土佐藩の吉村寅太郎は、
光明寺党と天誅組の盟主に祀り上げていますが、
2人とも中山邸を訪れていた志士らでした。
彼らに感化されたのは間違いないでしょう。
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