天誅組以前の中山忠光⑥

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中山忠光が再び下関にやってくると、
これを好機としたのが久坂玄瑞でした。

京都で活動していた久坂ら尊攘志士30余人らは、
攘夷期限が決定されると下関に向かい、
攘夷戦に参加しようとします。
ですが京都では攘夷派のリーダーである久坂も、
長州に帰れば下級藩士であり、
下関を守る正規兵からは外されてしまう。
これは門閥意識の強い長州藩士達から軽視されたのと、
何をしでかすかわからない危険集団と見られたため、
隊中には加えられないと考えられた為でした。

これに対して久坂は、忠光を御旗にして別働隊を結成。
光明寺に駐屯する彼らは「光明寺党」と呼ばれました。

この事態に赤間関総奉行毛利元美(記事はこちら)は、
忠光を頭とする一軍が別行動を取られては困ると、
藩政府に指揮系統の一本化を要望し、
藩も光明寺党が赤間関総奉行の指揮下と明確化します。

総奉行の配下がその旨を忠光や久坂に伝え、
軽卒な行動は慎むように告げたものですから、
攘夷をこの手で決行できると喜んだ忠光は、
その日よりご機嫌が悪くなり、
宿泊先となっている白石家では、
機嫌を治そうと連夜の酒宴が設けられます。

そんな中、久留米の神官真木和泉が、
久留米藩の政争により幽閉され、
佐幕派によって死罪になりそうだという情報を聞き、
忠光はお供8名と共に久留米に向かいます。
久留米に着いた忠光一行は、
久留米藩主有馬慶頼に面会を求めますが、
明日に藩校明善堂にお出で願いたい」との事で、
翌日に行ってみると大手門が閉門している。
開門を要求すると「偽公卿!」と罵る声が聞こえます。

これに忠光は怒り、
誠に無礼!麿は長州兵を率い久留米を討つ!」と、
言い放って久留米を去りました。
もし本物ならば長州藩と戦争になると焦った久留米藩は、
藩士に長州に帰る忠光一行の後を追わせて、
無礼を謝って久留米に戻るよう嘆願しますが、
怒りの治まらない忠光は聞き入れない。
弱った久留米藩は、尊攘派渕上郁太郎らを向かわせ、
真木らの釈放を取り計らうと約束した為、
ようやく忠光の怒りは治まります。

忠光は久留米の手前にある松崎宿に滞在。
2人の使者を久留米城に派遣して、
藩主に真木の釈放を趣きを伝えさせます。
しかし当時の久留米藩政は佐幕派が握っており、
釈放の確約が得られぬまま、
2人は忠光の許へ帰って来ましたので、
これに忠光は怒ってさっさと下関に帰ってしまいました。
焦った久留米藩は、結局真木の釈放を決定。
真木は忠光のおかげで、九死に一生を得たのです。

忠光の久留米出張中、
長州藩は米商船ベンブローク号に砲撃を開始。
攻撃を予期していなかったペンブローク号は、
あわてて周防灘へ逃走します。
忠光はこの話を聞いて悔しがりますが、
攘夷戦参戦の機会はすぐ訪れ、
仏船キンンシャン号
蘭船メデューサ号への砲撃に参加。
忠光は光明寺党と共に長州軍艦に乗ったとも、
前田台場で攻撃に参加したとも伝えられますが、
とにかく攘夷戦に参加したことは間違いないようです。

その後、米艦ワイオミング号が報復にやってきて、
長州艦庚申丸が撃沈、癸亥丸が大破、
台場も砲撃を受けました。
忠光は京都へ戻る為に長府に行っており、
この戦闘には参加していませんが、
敗北の様子も伝えられた事でしょう。
この帰京の理由は、長州藩の敗北に幻滅した為、
ともされますが、先に京に帰ると決めていますので、
他に理由があるようです。

とにかく忠光は京に帰ったわけですが、
その後すぐに天誅組の総帥となり、
天誅組の変」を起こします。
吉田松陰という狂人を排出した長州藩ですが、
その松陰を陵駕する狂人ぶり。
その行動は数々の重大な事件に影響を与え、
朝廷が、各藩が、有名志士が振り回されています。

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