「攘夷の魁たる長州藩が、
外国製の軍艦や武器を買うとは何事か!
そんなものは打ち壊してしまえ!」。
中山忠光は長州藩軍備の洋式化に激怒。
高性能の武器を揃える事は当たり前で、
言っている事は無茶苦茶なのですが、
藩の重臣達がどう説明しても納得しない。
藩主毛利慶親にも掛け合う事になるですが、
武器を打ち壊せなど聞けるわけの無い話。
慶親は丁重にお断りしています。
萩に入って3日後、
立腹した忠光は下関に向かいました。
供は接待役に任命された宮城彦助と楢崎八十槌。
宮城は教法寺事件で切腹した人物です。
(記事はこちら)
白石正一郎の許に楢崎が忠光の来訪を告げると、
白石家では多くの要人が出入りしていましたが、
大納言子息で元侍従の貴公子が来るというので、
大慌てで座敷の掃除などの用意をします。
そして現れたその貴公子は、
過激な志士らを相手にしてきた白石の想像を、
大きく超えるような過激さを発揮しました。
丁重なもてなしで忠光を迎え入れた白石は、
忠光と国事について夜まで議論した様ですが、
「夜半八ツ過(午前2時過ぎ)」に、
突如として長府へと向かいます。
自分の太刀は寝室に置いており、
それを取りに行く暇もないと、
白石の刀と弟廉作の短刀を借りて、
飛び出して行きました。
深夜に、しかも太刀を取りに行けない程、
急いで出ていくのですから、
これはただ事ではないでしょう。
忠光の性格を考えれば、
長府藩主に何らかを掛け合ったのか?
長府での忠光がどうしたかはわかりませんが、
白石家には戻らず萩に帰ってしまいました。
おそらくはそんな深夜に門を叩いても、
藩主が出て来ることはないでしょうから、
立腹したまま萩へ帰ったのでしょう。
※宗家に言いつけてやる的な・・。
萩に帰ってからの行動は、
吉田松陰の墓を参った他は不明。
すぐに下関の白石家に戻っています。
それから白石とその供の者が、
忠光の激情に振り回される日々。
議論の末に絶食し、
なだめた末に機嫌が直ったと思ったら、
また怒り出して外へ飛び出していく。
これらの異常な行動に手を焼き、
萩滞在中に仕えた土屋矢之助という藩士を、
わざわざ下関まで呼んたりしています。
そうかと思うと建設中の前田砲台に現れて、
一般の人夫にまじってモッコを担ぎ、
朝から晩まで働きました。
それから萩に戻り、
藩から丁重に持て成されてはいますが、
すぐに下関に戻ってきます。
攘夷期限が間近かに迫り、
下関で攘夷が決行されるという風評には、
忠光の性格上じっとはしていられません。
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