天誅組以前の中山忠光⑤

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攘夷の魁たる長州藩が、
 外国製の軍艦や武器を買うとは何事か!
 そんなものは打ち壊してしまえ!
」。

中山忠光長州藩軍備の洋式化に激怒。
高性能の武器を揃える事は当たり前で、
言っている事は無茶苦茶なのですが、
藩の重臣達がどう説明しても納得しない。
藩主毛利慶親にも掛け合う事になるですが、
武器を打ち壊せなど聞けるわけの無い話。
慶親は丁重にお断りしています。

萩に入って3日後、
立腹した忠光は下関に向かいました。
供は接待役に任命された宮城彦助楢崎八十槌
宮城は教法寺事件で切腹した人物です。
※記事はこちら

白石正一郎の許に楢崎が忠光の来訪を告げると、
白石家では多くの要人が出入りしていましたが、
大納言子息で元侍従貴公子が来るというので、
大慌てで座敷の掃除などの用意をします。
そして現れたその貴公子は、
過激な志士らを相手にしてきた白石の想像を、
大きく超えるような過激さを発揮しました。

丁重なもてなしで忠光を迎え入れた白石は、
忠光と国事について夜まで議論した様ですが、
夜半八ツ過(午前2時過ぎ)」に、
突如として長府へと向かいます。
自分の太刀は寝室に置いており、
それを取りに行く暇もないと、
白石の刀と弟廉作の短刀を借りて、
飛び出して行きました。

深夜に、しかも太刀を取りに行けない程、
急いで出ていくのですから、
これはただ事ではないでしょう。
忠光の性格を考えれば、
長府藩主に何らかを掛け合ったのか?
長府での忠光がどうしたかはわかりませんが、
白石家には戻らず萩に帰ってしまいました。
おそらくはそんな深夜に門を叩いても、
藩主が出て来ることはないでしょうから、
立腹したまま萩へ帰ったのでしょう。
※宗家に言いつけてやる的な・・。

萩に帰ってからの行動は、
吉田松陰の墓を参った他は不明。
すぐに下関の白石家に戻っています。
それから白石とその供の者が、
忠光の激情に振り回される日々。
議論の末に絶食し、
なだめた末に機嫌が直ったと思ったら、
また怒り出して外へ飛び出していく。
これらの異常な行動に手を焼き、
萩滞在中に仕えた土屋矢之助という藩士を、
わざわざ下関まで呼んたりしています。
そうかと思うと建設中の前田砲台に現れて、
一般の人夫にまじってモッコを担ぎ、
朝から晩まで働きました。

それから萩に戻り、
藩から丁重に持て成されてはいますが、
すぐに下関に戻ってきます。
攘夷期限が間近かに迫り、
下関で攘夷が決行されるという風評には、
忠光の性格上じっとはしていられません。

つづく。
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