天誅組以前の中山忠光②

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文久2年9月1日。
京都滞在中の武市半平太の宿舎へ、
中山家の家臣が面会に来た。
土佐藩他藩応接掛である武市は、
攘夷派公卿の中山忠能とは既知でしたが、
訪問してきた大口出雲守という家臣に、
面識はありませんでしたが、会ってみると、
本間精一郎を殺した者の名を教えて欲しい」との事。
大口は当主の忠能の命ではなく、
子息で侍従中山忠光の使いのようでしたが、
そんなことを軽々しく言える訳がなく、
自分は知らないと言って追い返しています。

同月8日になって再び武市の許へ大口が現れます。
大口は今度も忠光の命でやってきたようで、
幕府に通じる岩倉具視らに天誅が下らないので、
 今夜にも刺し殺そうと思っているので、

 是非力を貸してほしい」という。
これに武市も驚き、一度侍従様にお会いしようと伝えると、
その夜に忠光がやってきて、同じような事を言う。
思い止めるように説得しますが、忠光は頑として聞かない。
仕方なく「明日の夜までに同志と相談する」と言って、
忠光を帰します。

武市は次の日、土佐勤王党平井収二郎と対策を相談。
平井は忠光がどういう人物か探るため、
姉小路公知に忠光の人となりを聞く。
姉小路は「粗暴な振舞が多いと聞くが、
 どういう人物かはわからない」というので、
平井はその帰路に中山邸へ行って、忠光に面会を求めます。
そこでは会う事ができず、
家人より今夜武市の宿舎に行くという紙を貰う。
武市も三条実美宅を訪れて事情を報告。
三条も驚いて忠能に連絡します。

忠能は忠光の計画を知り、本人に直接問いただすと、
岩倉を殺そうと思っているが、
 許してくれなければ自害する」と息巻くので、
いきなり殺害するのは暴挙であるから、彼らの罪を訴えて、
それが聞き入れなければ、その時に手を下すべきだと諭し、
言う事を聞けぬならまず父を殺してからゆけと迫った。
忠光も父は殺すわけにはゆかぬと計画を断念し、
その晩に武市の許を訪れて中止せざるを得ない事と、
明日にでも近衛関白殿下に訴える旨を告げました。

翌10日朝。
中山家から武市と平井にすぐ来てくれという使いがあり、
平井が不在だったので武市だけが行ってみると、
忠光が現れて「本日訴えに行くから、
三藩の協力が欲しい」との事。
武市はこれを謹んで受けいれて退出します。

忠光は関白の近衛家に出向いて、
岩倉らを遠島にするか洛外退居にせよ。
 もし聞き入れられない場合、
 自分は位階を返上し、

 三藩と謀って天誅を加える」と迫った。
12日には、岩倉邸、千種有文邸、久我建通邸に、
2日以内に退去せねば、
 加茂川に首級を晒し、累は家族に及ぶ
といった内容の脅迫状が投げ込まれます。
これに岩倉は髪をおろして僧姿となって、
西賀茂の霊源寺に逃げ込み、
その後、洛西の西芳寺に移っていますが、
追放令まで発令されてしまい、
仕方なく岩倉村で蟄居するに至りました。

実は岩倉らは既に三条や姉小路などの攘夷派公卿に弾劾され、
失脚して蟄居処分となって、辞官していたのですが、
それに追い打ちを掛けるような脅迫を受けたわけです。
岩倉らは朝廷の権威高揚に努めていたのでしたが、
和宮降嫁に尽力した事で佐幕派とみなされたようでした。

失脚にとどまらず天誅予告・追放処分にまで発展したのは、
岩倉らが天皇を毒殺しようと企んだという風説が流れたからで、
忠光が岩倉を亡き者にしようとした理由ではないかとされます。

この忠光の一連の狂気じみた行動により、
武市や三条といった有力な志士や公卿が動くことになり、
挙句に岩倉らは慶応3年11月という最末期まで、
京に入る事は許されませんでした。

つづく。
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