文久3年2月9日夜。
中山忠光は再び岩倉具視を斬ると言い出します。
攘夷期限の決定や朝廷の言路洞開、
人材の登用の三事が行われないのは、
岩倉具視らの妨害が原因と思い込んでいる様子。
岩倉は既に失脚しており岩倉村で蟄居の身。
全くのデマなのですが、
何故か忠光は岩倉のせいだと思い込んでいます。
相当岩倉に憎悪しているのか、
岩倉を悪の化身のように考えている様子。
これに久坂玄瑞や宮部鼎蔵、
轟武兵衛は驚いて忠光を説得しますが、
全く聞く耳を持たず、
今にも行動を起こそうとするので、
仕方なく一応承諾して忠光を中山邸に帰し、
すぐに武市半平太に相談して、
三事を近衛関白に建議することになります。
久坂、宮部、轟の3人は、
関白近衛忠煕邸を訪問し三事の実行を嘆願。
聞き入れられない場合は自刃すると論じます。
やがて三条西季知や姉小路公知、
そして当の忠光など、
13人の攘夷派公卿も近衛邸に駆けつけたので、
関白も押しきられて奏上することになります。
その結果、一橋慶喜に攘夷期限の決定をせまり、
慶喜は松平春嶽や山内容堂、
松平容保らを招集して夜を徹して協議し、
夜明けになって「将軍帰府後20日」を、
攘夷期限とすることになりました。
またしても忠光の暴議(わがまま)から、
歴史的な重大事が決定されたわけです。
それ以降、攘夷派公卿によって朝廷が制圧され、
将軍の上洛前には賀茂行幸も決定されました。
賀茂行幸が盛大に行われ、忠光もこれに参加。
京都の政情は攘夷へと移行していくのですが、
その日から忠光の帰宅は遅くなり、
また攘夷派公卿や志士らが、
頻繁に中山家を訪問して慌ただしくなります。
そして3月19日。
突如として忠光は出奔してしまいました。
その理由には諸説があり中川宮と激論を交わし、
抜刀して中川宮を追いかけた為に、
京を追われて出奔したという説。
自ら攘夷の魁とならんと、
大阪湾内の外国船への攻撃を模索する為、
麻耶山、河内、紀伊等に視察に行ったとする説。
そして長州藩が攘夷を実行する御旗とする為に、
忠光を誘い出したとする説があります。
とにかく忠光は4人の従者と共に大坂へ向かい、
偶然にも久坂玄瑞と入江九一に会います。
※なんとも出来過ぎな・・。
久坂らと共に大坂の長州藩邸に入った忠光は、
大坂で同志を募り決起するつもりであると語り、
久坂はそれを聞いて無謀だと論じ、
しかしながら帰るとお咎めをうけるだろうから、
「ひとまず長州に行ってみてはどうか」
と提案すると忠光はその案を受け入れ、
入江と共に長州に渡った・・・ということです。
話が出来過ぎていますので、
久坂らと偶然出会った件、長州行きの件などは、
初めから計画されていた事でしょうね。
しかしながら忠光の性格を考えると、
自ら長州行きを希望したとも考えられますし、
長州も忠光のような錦旗が来てくれれば、
充分な大義名分となります。
下手すると死ぬかもしれない戦場で、
しかも長州の片田舎になんて、
わざわざ赴いてくれる公卿なんて、
忠光以外にはいません。
そんなこんなで忠光は長州へ向かいます。
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