教法寺は赤間町にある真宗本願寺派の寺院。
鎌倉期の元応年間(1319~1321)、
教法房浄信が海岸で木仏を見つけ、
これを安置する為に創建されました。
文久3年の下関攘夷戦では、
正規部隊である撰鋒隊が屯所としますが、
撰鋒隊は奇兵隊と対立するに至り、
同年8月16日に奇兵隊の襲撃を受けます。
これにより隊士蔵田幾之進が殺害され、
報復に撰鋒隊は用人奈良屋源兵衛を拉致。
境内で冷水をかけて拷問した後で、
門外に放り出されました。
源兵衛は近隣の商人に助けられますが、
長時間冷水をかけられた為に発熱。
看病の甲斐も無く死亡しました。
一色触発の状態となった末に、
世子毛利元徳が鎮静に動いて事件は収束。
騒動の発端となった宮城彦輔は、
藩より死罪が申し付けられました。
教法寺の境内において切腹が行われ、
介錯は総督の高杉晋作が務めています。
金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑨
「教法寺」。
教法寺は昭和20年の下関空襲により、
本堂や寺宝を焼失しています。
現在の本堂は昭和43年の再建で、
境内に往時の名残は残っていません。
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下関市赤間町 教法寺
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