慶応3年(1867)年12月18日。
新選組は伏見奉行所に転陣しており、
局長近藤勇は軍議で二条城へ赴いた後、
護衛約20名と帰路につきましたが、
近藤は[墨染通]辺りで狙撃され、
左肩に銃弾を受けました。
予期せぬ銃撃を受けた近藤は、
馬を走らせて伏見奉行所に逃げ込み、
大事には至りませんでしたが、
治療の為に大坂… 続きを読む
京都府京都市 近藤勇遭難の地
コメントを残す
慶応3年(1867)年12月18日。
新選組は伏見奉行所に転陣しており、
局長近藤勇は軍議で二条城へ赴いた後、
護衛約20名と帰路につきましたが、
近藤は[墨染通]辺りで狙撃され、
左肩に銃弾を受けました。
予期せぬ銃撃を受けた近藤は、
馬を走らせて伏見奉行所に逃げ込み、
大事には至りませんでしたが、
治療の為に大坂… 続きを読む
元新選組/御陵衛士 新井忠雄の墓。
「従六位勲五等新井一業
妻小静之墓」。
新井忠雄は磐城平藩の出身で、
元治元年頃に新選組に入隊したとされます。
大酒飲みの酒豪であったとされ、
隊では撃剣師範や監察… 続きを読む
北政所は豊臣秀吉の菩提を弔うため、
東山に高台寺を創建しています。
現在臨済宗ですが創建時は曹洞宗でした。
建立には徳川家康が多額の援助をしており、
普請掛として堀直政が任じられます。
「庫裏」。
拝観順路入口に位置する… 続きを読む
伊東甲子太郎は新選組の参謀でしたが、
思想の違いで脱退を決意するに至ります。
脱退は局中法度で切腹となってしまう為、
新組織立ち上げによる分離のカタチをとり、
御陵衛士を立ち上げました。
分離には局長近藤勇… 続きを読む
新選組参謀伊東甲子太郎は元々志筑藩士で、
父鈴木専右衛門の罪で藩を追われています。
※この時の名は鈴木大蔵。
剣術修行で水戸に出て金子健四郎に入門し、
水戸学の影響を受けて勤皇思想に目覚め、
後に江戸の… 続きを読む