伊東甲子太郎は新選組の参謀でしたが、
思想の違いで脱退を決意するに至ります。
脱退は局中法度で切腹となってしまう為、
新組織立ち上げによる分離のカタチをとり、
御陵衛士を立ち上げました。
分離には局長近藤勇との話し合いで行われ、
円満に御陵衛士が発足されたわけですが、
「隊では浪士や諸藩の動向が掴めない為、
人数を分けて共に力を尽くしたい」等、
上手に近藤を説得したともされています。
もちろん伊藤は予め朝命を得ていましたし、
御陵衛士が山稜奉行の配下となることも、
円満分離せざるを得ない状況でした。
※幕臣取り立ての微妙な時期でもあった。
新選組から分離した御陵衛士は、
伊東以下、弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、
藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、
富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、
加納鷲雄、中西昇、
橋本皆助、清原清、新井忠雄、
そして間者だったとされる斎藤一の15名。
はじめは三条の城安寺を仮宿舎とし、
すぐに五条の善立寺に移って3ヶ月過ごし、
最後に高台寺の塔中月真院に移ります。
「月真院」。
高台寺は豊臣秀吉の正室北政所創建の寺で、
寺名は北政所の院号高台院に因みます。
月真院は津和野藩2代亀井茲政の建立で、
父亀井政矩の菩提を弔う為に建立。
残念ながら現在は非公開。
「御陵衛士屯所跡」。
御陵衛士は月真寺を屯所とし、
伊東は精力的に周旋活動を行っており、
朝廷に建白書を提出したりしました。
大宰府や尾張など地方へも行っています。
しかしこれらの行動は斎藤が逐一報告。
※斎藤は後に新選組に復帰。
伊藤による近藤暗殺計画もあった為に、
捨て置けぬとなった新選組によって、
伊東は油小路で暗殺されてしいました。
※暗殺理由には諸説あります。
その後に隊士藤堂、服部、毛内も殺され、
御陵衛士は事実上崩壊することとなります。
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・京都府京都市 油小路事件跡
新選組が伊東を殺害した現場。
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当時は不動堂村を屯所としています。
・京都府京都市 近江屋跡
伊東は新選組を下手人と断定しています。