霊山護國神社南隣にある霊明神社。
実はこの神社は霊山護國神社の元祖であり、
招魂社という意味では桜山神社より古い。
※桜山神社は国事に殉難した者を、
皆で祀る最古の招魂場。
清末藩出身の儒者で勤皇志士の船越清蔵は、
京都等で尊皇攘夷運動を展開。
久坂玄瑞などとも懇意となっていましたが、
安政の大獄により身の危険を感じた為、
船越は長州に戻って長府藩に仕官し、
長府藩校敬業館や長州藩校明倫館、
清末藩校育英館等で講義しています。
しかし長州藩主毛利敬親に講義した際、
毛利家の始祖である大江広元を批判し、
この事に激怒した長州藩士に毒を盛られ、
その帰路の絵堂で倒れて死亡。
これを知った久坂や吉田玄蕃らは、
霊明神社で船越の神道葬を斎行し、
船越の奥都城を建立しました。
「霊明神社」。
霊山護國神社の南の坂を上った左手。
正法寺の塔頭が所有していた山林を、
初世神主村上都愷が購入し創建した神社で、
神道葬祭場を創設し神道葬を行いました。
当初は時宗の葬式を装っていましたが、
2世村上美平が神祇管領吉田家に認められ、
正式に神道葬が執り行われています。
※船越の葬儀は3世村上都平の時代。
「本殿(右)」。
小さな本殿。隣は末社の猿田彦神社。
船越の神道葬のすぐ後には、
安政の大獄以降の殉難士の霊魂祭が、
ここで執り行われており、
以降も志士の葬儀が行われるようになり、
坂本龍馬らの葬儀も行われました。
後に各藩の招魂社が敷地内に建立され、
新政府も初の官祭招魂社を建立します。
しかし明治10年に墓地の殆どが公収され、
境内にあった官祭招魂社が独立し、
殉難志士の墓がその官修墳墓となりました。
その後の昭和14年に京の各招魂社を合祀。
現在の京都霊山護國神社となっています。
霊明神社を出て長い石段を下ると、
左手に霊明神社西墓地があります。
「霊明神社西墓地」。
元々の霊明神社の墓域は神社北側でしたが、
安政3年に西側に墓域を拡張しており、
天誅組の奥津城はここに建てられており、
土佐藩招魂社もここにありました。
後に天誅組の奥津城と土佐藩招魂社は、
霊山護國神社の現在地に移転。
※土佐藩招魂社は高知県招魂社と改称。
少なからず勤皇志士らの墓もあります。
「川喜多眞彦之墓」。
京都の国学者川喜多真彦の墓。
「正保遺事」「高山彦九郎伝」、
「古今墨蹟鑒定便覧」などの著者で、
赤報隊に書記として加入していますが、
隊が長島藩に軍資金を献金させた為、
四日市で肥後藩兵に捕縛されました。
「師岡正胤之墓」。
師岡正胤は江戸の医師の子。
京都で国学者大国隆正に学び、
江戸で平田銕胤の門人となっています。
文久3年に足利三代木像梟首事件を起こし、
捕らえられて上田藩に禁固されています。
王政復古後に赦免されて新政府に出仕。
監察司知事、弾正台大巡察などを歴任し、
松尾大社の大宮司となっています。
文学御用掛、伊勢神宮本部教授も務め、
愛媛皇典講究所の教授にも就任しました。
明治32年、死去。
「松本謙三郎奎堂大人顕彰碑(中央)」、
「妻 松本うた刀自顕彰碑(左)」、
「従者 村上萬吉大人顕彰碑(右)」。
平成28年建立の松本奎堂らの顕彰碑。
松本奎堂は天誅組三総裁の一人で、
幼少から学を好み神童と称えられたという。
武術に秀ていましたが稽古中に左眼を失明。
以後は学問に励み藩費で江戸に遊学し、
大槻磐渓や羽倉簡堂に学んで、
昌平坂学問所で舎長にもなっています。
その後、藩校の教授を務めていますが、
藩政を批判して1年間の禁固処分となり、
出獄後に博徒等と交わるようになりました。
上京して京都や大坂で私塾を開きますが、
尊攘運動を行った為に幕府に睨まれて閉塾。
孝明天皇の大和行幸を好機と捉え、
吉村虎太郎や藤本鉄石と天誅組を結成し、
中山忠光を擁立して大和で挙兵します。
天誅組は五条代官所を襲撃していますが、
八月十八日の政変で大和行幸は急遽中止。
天誅組は幕府より追討を受ける事となり、
十津川郷士合流や高取城攻略失敗で瓦解。
主将の忠光と共に脱出を図っていますが、
戦闘で右目も失明して盲目となっており、
追討の紀州藩兵と戦って戦死しました。
これらは霊明神社墓地が公収され、
天誅組の墓や土佐藩招魂社が移転した後、
遺族や有志らによって建立されたものです。
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菊川に埋葬されている船越清蔵の墓。
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霊明神社の墓地であった霊山護國神社。
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松本奎堂の墓が建てられています。