京都府京都市 霊山護國神社①

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念願の霊山護國神社へ行ってきました。

文久2年。
清末藩の国学者船越清蔵が暗殺されますが、
※記事はこちら
これを知った華院家士吉田玄蕃は、
霊山神道葬祭場霊明社に船越の墓碑を建て、
有志を募って神葬祭を行います。
これをきっかけに勤皇志士が殉難した際、
霊山で神道葬が行われる事が通例となり、
安政の大獄の殉難者の祭祀も営まれました。
その後、吉田稔麿等(池田屋事件)、
坂本龍馬等(近江屋事件)が埋葬され、
慶応4年には明治天皇の詔が発せられ、
霊明社の境内地及び墓地が上知され、
霊山官祭招魂社が創設されます。
以後、境内を拡張に伴い新たに社殿が造営。
昭和14年の内務大臣布告によって、
京都霊山護国神社と改称されました。


京都霊山護國神社」。
京都に外国人観光客が増えていますが、
ここはそこまで多くは無い様子。
京都でこれほど少ないのは不思議ですが、
あまり紹介されていないのでしょうか?
攘夷排他運動とも云えますので、
外国人には説明し辛いのでしょうか?


維新の道」。
参道は維新の道を名付けられています。
明治百年に発足した霊山顕彰会が整備し、
参道は「維新の道」と名付けられました。
石碑の揮毫は松下幸之助によるもの。


維新の道(・というより坂)を上り、
左手より京都霊山護國神社へ。


拝殿」。
現在の拝殿は昭和天皇御即位大礼の、
大嘗宮斎庫が下賜されたもの。
思ったほど境内は広くありません。


社務所の拝観口より「霊山墓地」へ。
拝観料は300円。


墓地への参道にある墓標の地図。
これは便利ですね。

参道を進むと大きな碑が現れます。

故内閣顧問贈従一位木戸公神道碑」。
木戸孝允は明治10年に死去し、
霊山墓地に葬られています。
神道碑建立の勅命が下っていますが、
制作には紆余曲折があったようで、
建立は大正2年になってから。

木戸の神道碑より道は折り返し、
さらに上へ進む。

勤皇力士錣形岩衛門之碑」。
京都相撲頭取の錣形岩右衛門の墓碑。
禁裏守護補佐を務めた力士隊隊長とのこと。
墓碑は子孫が建立したもので、
京都の力士隊を調べてみると、
文久3年に結成した力士らの隊で、
隊長(総代)は力士の旭形亀太郎
禁門の変で内裏に参じて護衛を担当し、
孝明天皇の激賞を授かってます。
錣形は後ろ盾のような存在だったようで、
正確には隊長ではありませんでした。


淡海槐堂先生旌褒碑」。
醍醐家の家臣板倉筑前介の碑。
尊攘運動に協力して尊攘志士ら支え、
天誅組に援助したことから捕らえられます。
維新後は淡海槐堂と称して隠遁し、
余生は詩画の制作に没頭。
没後に明治天皇から祭祀料が下賜され、
親戚知人らが碑を建立して顕彰したもの。

・・と、一つ一つ説明していては、
何年も掛かることでしょう。
※近辺に住んでいるならアリですが。

上り道を登った先には、
梅田雲浜の碑がありました。

雲濵君碑」。
梅田雲浜は幕府の政治を批判し、
安政の大獄で捕らえられて獄死しています。
小浜藩の出身でしたが、
藩主の逆鱗に触れて浪人となり、
赤貧に喘ぎながら尊攘活動をしていますが、
尊攘活動の傍ら交易仲介で財を成し、
相当に裕福であったという。

つづく。
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