菊川町で船越清蔵関連史跡を訪ねました。
船越清蔵は清末藩士船越孟正の長男で、
藩校育英館に学んだ後に豊後に遊学して、
儒学者帆足万里や広瀬淡窓に師事します。
5年間の遊学を終えて帰ってきますが、
何か思うことがあったのか、
家督を放棄して在野に下りました。
諸国を旅して長崎等で蘭学や医学を学び、
自活の糧を得た後は、
江戸、蝦夷、京都等で尊攘活動を行い、
安政の大獄が始まると長州へ戻ります。
吉田松陰も清蔵に私淑していたらしく、
松陰門下生も清蔵の許を訪れました。
長府藩の儒臣として迎えられた清蔵は、
長府藩のみならず長州藩校明倫館や、
その他支藩の藩校でも講義していたようで、
藩士らに尊皇攘夷を訴えました。
しかし文久2年に毛利敬親の御前にて、
毛利家始祖である大江広元を批判した為、
この事に激怒した過激派に毒を盛られ、
その帰路の絵堂で倒れて死亡しました。
清蔵が論じたのは、
「広元を始祖とする毛利家が、
勤皇を掲げるならば、
広元が源頼朝の側近となった事実を、
天下にどう説明するかを考えねばならぬ」
というもっともな意見でした。
「船越清蔵旧宅跡」。
場所は菊川町大字上岡枝1151
清蔵の生家とされる場所で、
清末藩士船越家の家があった場所。
清蔵が家督を放棄した後、
末妹とりが婿を貰い家督を相続しています。
旧宅跡から真西の小丸山中腹に、
船越清蔵の墓があります。
田園地帯の細道を通り、
山道(一応車は通れます)を登ります。
少し登ると墓石が沢山建っていました。
昔からの墓地のようです。
更に登ると船越家の墓所があります。
「船越清蔵藤原守愚墓」、
「贈従四位船越清蔵」。
船越清蔵の墓は並んで二つありました。
自然石の方は埋葬時に建てられたもので、
奥津城の方は従四位を贈った際に、
新たに建てられたものでしょう。
絵堂で死亡した清蔵の遺体には、
毒殺の形跡がはっきりあったらしい。
妹婿笹尾万次郎が駆け付けて、
清蔵の遺体を持ち帰り、
船越家の墓所に埋葬したそうです。
最後に向かうは岡枝小学校。
ここに清蔵の顕彰碑が建てられています。
「船越清蔵顕彰碑」。
岡枝小学校にゆかりのある官僚と、
校長の顕彰碑と並んいます。
それぞれに説明板が建てられていて、
わかりやすい説明がされていました。
船越清蔵は霊山護国神社にも重要な人物。
清蔵の死から3ヶ月後、
在京の長州藩士等50人が集まり、
霊山で清蔵の神道葬が行われました。
これが霊山墓地の始まりだったようです。
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