堅田陣屋は元禄11年(1698)に築かれた陣屋。
堀田正高が佐野藩より入封し、
陣屋を構えて堅田藩を立藩させました。
正高は大老堀田正俊(古河藩主)の三男で、
家督を継いだ兄堀田正仲より分知され、
下野国安蘇郡に佐野陣屋を築き、
佐野藩を立藩して諸侯に列しています。
後に6代堀田正敦が領地約4000石を、
下野国安蘇郡に移された為、
旧本拠であった佐野陣屋を藩庁に変更。
堅田藩は消滅して再び佐野藩となりますが、
堅田周辺は所領として残った為、
堅田陣屋は飛地陣屋として存続しました。
「堅田の街並み」。
堅田1丁目周辺は古い家屋が残っており、
陣屋町の風情を今に残しています。
「堅田陣屋跡」。
堅田陣屋跡は現在民家及び駐車場。
もちろん建物は残っていませんが、
石垣等の遺構は残っています。
「石垣」。
琵琶湖側に残る陣屋の石垣。
遊歩道もあって見学も容易です。
石垣には幾つか石段がありますが、
陣屋への湖側の入口だったのでしょう。
※ここから有名な浮御堂が見えますが、
これは別記事と致します。
「伊豆神社」。
陣屋の西側にある伊豆神社。
堅田の総鎮守として崇敬された神社で、
寛平4年(892)に伊豆大権現を勧請したもの。
「光徳寺」。
伊豆神社の西側にある真宗大谷派寺院。
[堅田源兵衛ゆかりの寺]として知られ、
その首が本堂に祀られているようです。
「堅田源兵衛父子殉教之像」。
本願寺の蓮如上人は比叡山の宗徒から、
親鸞聖人の真影(木像)を守る為、
比叡山と対立する三井寺にこれを預けます。
後に本願寺が山科に再興され、
真影の返却の為に門徒衆が三井寺を訪問。
しかし三井寺は真影を返すのを惜しみ、
「真影を戻したければ、
人間の生首二つ持ってこい」と、
無理難題を言い出した為、
蓮如上人は日夜心を痛めていました。
光徳寺の門徒で漁師の源右衛門親子は、
悩んだ末に自らの首を差し出す事を決意。
源右衛門は息子源兵衛の首を斬り、
これを三井寺へ持って行き、
更に自分の首も斬ってくれと言います。
三井寺側は親子の殉教心に驚き、
真影と息子の首を返してくれたという。
青龍刀ような片手持ちが気になりますが、
親が息子の首を斬るという残酷な場面。
殉教心と称えて良いものか迷います。
「法名釋了喜之墓」。
堅田源兵衛の墓。
首は祀られているので胴塚でしょう。
首も拝見出来るそうなのですが、
悩んだ末に躊躇してやめました。
見ればよかったと後で後悔しています。
■関連記事■
・滋賀県大津市 三井寺(園城寺)①
首を二つ所望したという三井寺。